関ケ原で武功なく大出世した男。山内一豊。「功名が辻」【中学生以上向き】#司馬遼太郎 #関ヶ原

功名が辻司馬遼太郎先生にはネーミングセンスもありますね。

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装丁はこちらの方が趣があって好きです。

関ヶ原」繋がりのひとつとして「功名が辻」を紹介いたします。関ヶ原のおさらい的内容だけでなく、織豊時代の一面を知るには勉強になる本です。「山内一豊」ではなく「功名が辻」というタイトルが読書意欲を掻き立てますね。

功名が辻(文春文庫)全四巻 司馬遼太郎 著

子育てヒロシ的評価=★★★★★

関ヶ原合戦前夜、僅か六万石の大名・山内一豊は、小山評定で「わが領地を徳川殿に差し上げる」という一言の功名により、戦後土佐二十四万石の大大名に出世する「ぼろぼろ伊右衛門」の異名で呼ばれた、山内一豊の一代記…と、いうよりは、妻・千代の卓抜した政治感覚で、人並みの勇気はあるものの、政治的才覚に乏しい夫を出世させてゆく、女一代記といった方が良い。「千代」は「ねね(おね)豊臣秀吉の妻」「まつ前田利家の妻」と並ぶ、戦国三賢女にあげられているが、最も機敏な才女。というイメージがある。あと、どうでも良い事だが、三人の中で、唯一名前に漢字が使われている。

【あらすじ】

織田信長、隆盛期。その家中に「ぼろぼろ伊右衛門」と、あだ名される冴えない武士。山内伊右衛門一豊がいた。その伊右衛門一豊のもとに美濃でも評判の美人「若宮千代」が嫁いでくる。この婚姻から、一豊の出世が始まる。
千代には政治才覚があり、機を見るに敏なところがあった。やがて信長が本能寺に倒れ、秀吉旗下(麾下)だった一豊にも大運が巡ってくる。小田原攻めの後に、六万石に出世し、秀吉死去後、関ヶ原の合戦では家康に着く。大坂に残った千代もとに、石田三成から回状が届くが、封も切らず一豊に早飛脚で送り「そのまま封を切らずに、家康様に渡すよう」指示する千代。小山評定では同僚、堀尾忠氏の「領地差出し」のアイデアを盗み、関ヶ原では戦況も分からぬ様な、後方に陣取り槍働きひとつ無いにもかかわらず、戦後には土佐・二十四万石の大領を得て大大名に出世する。

【こぼれ話】

山内一豊といえば、小山評定でのアイデア盗用が有名ですが、作品「関ヶ原」の中では、ぬけぬけとした態度で描かれいます。「功名が辻」の中では「ゴメン。うっかり、言っちゃた」的に描かれていて、大河ドラマでは、堀尾殿が緊張しすぎたため、やむなく一豊が言わざる得なかった。的に描かれています。上川達也さん男前だしね。
土佐に転封された山内一豊ですが、長宗我部の遺臣達の反感を買い、反乱が頻発します。抑えきれない一豊。反乱を纏められなければ「不仕置き」(行政力なし)として領地は召し上げられてしまいます。焦った一豊は、相撲大会を装い、長宗我部の遺臣達をおびき出し、鉄砲隊による大量虐殺を行います。反乱は鎮圧はされたものの、反感は大きくなる。治めきれない一豊の取った最終策は、上士(山内武士)は下士(長宗我部武士)に対し「無礼打ち指し許し」等、徹底した暴力による抑え込みでした。吉田東洋など例外はありますが、決して長宗我部武士を登用しようとはしませんでした。この、差別行為が、幕末の土佐勤皇党のエネルギーとして、繋がって行くのは、なんとも皮肉な感じがします。
※時期は少しずれますが、加藤清正が熊本に転封された際。やはり、地元武士の反乱に合います。清正の場合、自らが手槍を取って騎乗の人になり、陣頭に立って鎮圧に向かいました。ただ、山内一豊と違ったのは、逆らうなら戦うが、仕える気があるなら分け隔てなく取り立てる。という態度で接した事でした。統率力という点で、山内一豊は残念な人だったようですね。

NHK大河ドラマ 功名が辻

上川達也、仲間由紀恵(出演)
子育てヒロシ的評価=★★★★

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