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信長の暗殺 本能寺の変

本能寺
本能寺の変天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝。

坂本龍馬の暗殺と並ぶ、日本史史上有名且つ謎多き暗殺事件です。
大河ドラマ麒麟が来る」では、まだまだ先の事件ですが、知らない人は居ない事件です。
明智光秀が何故、織田信長を本能寺に討たなければならなかったのか?
諸説あります。
●信長から「領地召し上げ」のパワハラ等、いじめ地獄でブチ切れた説。
羽柴秀吉が、そそのかした説。(だから「中国大返し」は尋常でない速さだった)
●調度、上方見物に来ていた徳川家康が、そそのかした説。
●信長がイエズス会に対し、心変わりした事を恐れ、そそのかした説。

等、がありますが、秀吉が黒幕であるのなら、どう隠滅しても、何らかの痕跡は残ったはずです。
家康黒幕説に至っては、事件後、自身の命が危うかったので、先ず、あり得ないでしょう。黒幕なら、三河で何時でも発進出来るように、軍を整えていなければ、例え秀吉の「中国大返し」がなくとも、仇討ち一番乗りは不可能だったと思われますし、同様になにかしら痕跡は残ったはずです。
イエズス会黒幕説に至っては、本能寺の変の後、これといった行動を起こして居りません。
どれも、決め手に欠けます。
事件そのものも、幾ら、信長が油断していたにしても、一万三千の兵に囲まれるまで、気付かなかったのも、おかしい。
ある、検証番組では、鎧を身にまとった兵が、一万三千人も蠢けば、当時の、夜の静けさから言って、数キロ以上先からでも音が聞こえたはずだと言います。
他、丹波亀山(亀岡)から、京都・本能寺迄、時間がかかりすぎ
等の、謎も残ります。

ただ、ハッキリとしているのは、凶行は突発的に行われたという事です。
万事、慎重で用意周到に行動してきた明智光秀にしては、犯行後に、細川藤孝親子、筒井順慶、他の武将らに「味方になって欲しい」旨を初めて手紙にしています。領地・恩賞をチラつかせても、思う様に味方は集められていません。むしろ、皆、見限っていました。
結果、僅か十一日後に、現・京都市伏見区小栗栖で落ち武者狩りにあって落命いたします。

これは、元・科捜研のプロファイラーの方が、ある番組で言っていた事ですが、
「加害者(光秀)と被害者(信長)は、あらかじめ会談する予定が入っていて、交渉が決裂して犯行に及んだのではないか」
と仰られていました。話しとして「目からうろこ」でした。
中国筋に向かう前に、信長、光秀会談が予定されていたのなら、兵一万三千が一緒に、本能寺にあらわれても自然ですし、会談の時間があるので、亀岡発進から事件まで時間が、かかり過ぎた説明もできます。そして、交渉が決裂し、犯行に至ったことも自然に感じられました。
では、交渉の内容はなんであったのか? 
恐らくは「長曾我部元親」征伐の中止を願い出ていたのではないでしょうか? 対長宗我部外交の担当官は、明智光秀でした。織田臣下になるよう懐柔工作を進めている最中、信長は方針を反転させ、征伐を決定。この交渉の決裂で「殺るしかない」と思ったのではないかと推察できます。
その証拠…という程でもありませんが、明智光秀没後、長宗我部元親明智の遺臣を大量に召し抱えています。その中に、幕末の英雄、坂本龍馬に繋がる「坂本氏」も含まれますが、坂本氏、坂本龍馬に関しては、また別の機会に書きたいと思います。
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