ザックリ戦国時代の火縄銃の話 #火縄銃 #戦国時代 #麒麟が来る

ザックリ戦国時代の火縄銃の話

戦国時代の火縄銃は一体どれほどの威力があったのか?
昔、取材した米沢鉄砲隊。場所は松本城

一般に1543年に種子島にオランダ船が漂着し、二丁の火縄銃から日本全国に広まったとされていますが、最近では、それ以前に倭寇などにより、東南アジアから持ち込まれていた説が有力になってきています。
戦国時代、鉄砲は、瞬く間に日本中に広まり、西日本(特に九州)を中心に短期間に大量生産されています。ルイスフロイスの日本史の中にも、大友宗麟が3000丁の鉄砲を保有していたと書かれています。(鉄砲の生産コストは高いので、いくら経済力の高かった西国大名でも、それだけ保有できたか、少し疑わしい気持ちもありますが)当時、ヨーロッパにも鉄砲の量産国として、日本は、挿絵付きで紹介されていました。
【火縄銃の威力】
時々、テレビの歴史バラエティ―等で、
「火縄銃の50メートルだった」
等と言われる事がありますが、これには注釈がいります。
火縄銃の威力に関しては、世界中の軍や日本の自衛隊でも、銃研究の一環として、既に検証されています。弾速は初速で、ほぼ音速、弾丸を飛ばすだけなら、550m程飛び、平服の人馬相手であれば220m位まで、十分な殺傷能力を発揮できるとされています。甲冑を撃ち抜ける射程が50m以内。この甲冑を撃ち抜ける距離50mをもって、有効射程距離のように言わています。
有効射程が50mしかないのなら、弓矢の方が武器として全然威力がある訳で、装填の速さでも弓矢の方が飛び道具として主力になったはずです。
長篠の合戦」も銃撃が最も盛んと言われた場所に、弾丸の遺棄数が少ないので、疑わしいという番組もありましたが、当時、鉄丸、鉛玉は高価だったので、戦後、ザル等で回収される事が多かった様です。さらに、近隣の住民がその後を漁っていたので、戦国当時の鉛玉が見つかる事の方が、むしろ少ないそうです。
【日本の火縄銃には何故、銃床・ストックが無い】
日本で使われていた火縄銃には、ストック肩当がありません。伝来した東南アジアのスタイルが、そのまま、日本に伝わったという事もありますが、鉄砲足軽も甲冑を着ていたので、ストックを肩に当てる事は返って不安定になるという理由がありました。
【火薬の原料硝石】
火薬は、硫黄、硝石、木炭を混合したもので、70%を硝石が締めました。硝石は水溶性が高く、雨の多い日本では天然の硝石は見つかりません。そこで、ヨーロッパ人が中国で硝石を仕入れ、日本で売り、硫黄の沢山取れる日本から硫黄を仕入れて、中国に売っていました。
硝石は、動植物の死骸がバクテリアに分解される過程で、その老廃物として生まれます。
後に、雨の当たらない、建物の床下で硝石が採取出来ることが分かり、硝石生産の為の小屋などが作られ、最も硝石の採れるヨモギと、糞尿を土に混ぜ込んで、硝石を作りだすようになりました。
飛騨高山の合掌造りの建物も、その床下で硝石を作る事が目的の家屋であったと言われています。
昔は、中学校の理科レベルでも、ヨモギにオシッコを混ぜ、一週間放置した後に、硝石を精製する実験をやっている先生も居ました。(今は多分出来ないでしょう)硝石はほぼ酸素の塊なので、火にくべると「バチバチバチッ!」音を立てて燃えたものです。
【銃の発祥地】
起源は、中国でほぼ間違いないと思われます。宋とペルシアとの戦争を経て、ヨーロッパに伝わり、14~15世紀頃に、火縄銃の原型が生れ。大航海時代に東南アジア経由で日本に伝わっています。

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