ザックリ戦国史「ポルトガルからオランダへの移行」 #戦国時代 #三浦按針 #八重洲

ザックリ戦国史ポルトガルからオランダへの移行」

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三浦按針と耶揚子(八重洲)はリーフデ号でやってきた

戦国時代。日本が主に交易していた、ヨーロッパと言えばルイス・フロイス等に代表されるように、ポルトガルでした。(交易つーても、大半は中国、東南アジアから仕入れた物を売っていた)
ところが、時代が進み、江戸時代に入ると、日本…徳川幕府は、欧州相手では、オランダとだけ交易をするようになります
ポルトガルとの交易は、半世紀以上にも及んだのに、何故、オランダが取って代わったのか? 
豊臣秀吉が亡くなり、天下簒奪がほぼ成った時、家康はポルトガルを含めて、当時、世界最強だったスペイン(イスパニア)との交易を望みました。交易と共に、当時最先端と思われる、スペインの諸技術の導入を図りたかったからです。
所が、スペイン側の交易条件は、キリスト教(カトリック)の布教と日本国内の測量でした。
布教と言えば、聞こえは、まあ…良いですが、実際は相手国内に同調者を募り、侵略戦争の時に内部蜂起して貰える内間ないかんの育成が目的な訳です。
因みに、豊臣時代に、長崎の「二十六聖人の殉教」は、布教による内間ないかんの育成に起因しています。
布教だけならまだしも、国内測量とは、スペイン側の意図が見え透いています。なんとか、交易だけを望んでいた家康でしたが、そこに、イギリスとオランダが「うちは、布教は望みませんよ。交易だけです」と手を挙げてきます。関ヶ原の直前に、家康がヤン・ヨーステン八重洲(オランダ代表)、イリアム・アダムス三浦按針(英国代表)の二人の漂着者を得ていたことも、大きく影響しているでしょう。(1600年4月19日、豊後に漂着)
スペイン、ポルトガルカトリックイギリス、オランダはプロテスタントで、先年、連合してスペインの無敵艦隊英仏海峡に破り、勢い付いていました。
「じゃあ、あんたら、ウチと取引してみる?」
的に、日本との交易権を得たイギリスとオランダですが、両国の商法に大きな差が生れます。「日本では毛皮が殆ど出回っていない」という事に、目を付けた双方、毛皮を売って回りますが、日本人は余り毛皮を欲しがりませんでした。
「日本では毛皮は売れない」と判断したオランダは、即、方向転換。毛皮より布の肌触りを好む日本人向けに、インド・中国辺りから生糸仕入れての販売に切り替えました。
しかし、イギリスは方向転換が出来ず「毛皮販売の新マーケット」に拘り続けた為に、ついには、イギリス東インド会社を撤退させます。
やがて、オランダは「羅紗」「ビロード」「胡椒」「砂糖」「ガラス製品」等に加え「書籍」という日本人が欲しがる、ヨーロッパ色の強いもの持ち込みます。
実は、日本人がもっとも欲しがった西洋の文化が、書籍でした。持ち込まれた書籍の中には「婦人用下着カタログ」の様なモノも含まれていましたが「ターフル・アナトミア解体新書」等、医学書やヨーロッパにおける東洋の認知度を示す書物が沢山ありました。余談ながら、日本の西洋書物収集は、幕末に英・米に小笠原諸島を奪われる事を防ぎます。
日本との交易権を得たオランダは、布教活動はしませんでしたが、幕府としては、やはり布教を恐れ、長崎出島から出ることは許されませんでした。
今、売れている食品
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