織田信長、武田信玄、上杉謙信、毛利元就 #織田信長 #武田信玄 #上杉謙信 #毛利元就

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上杉謙信は女子だったという説もある

織田信長は「比叡山焼き討ち」の直前位まで、信長にとって背後となる、武田信玄上杉謙信に対し、阿諛おべっか外交を駆使していました。
中でも武田信玄は、木曽・飛騨山脈に隔てられているとは言え、領地的には隣接していましたから、かなり真剣な外交が必要でした。
1565年頃から、夥しい贈り物と「オジキと呼びたい」的ファンレター攻めで信玄を篭絡し、諏訪勝頼(信玄の四男で後の武田勝頼)に、養女とはいえ娘を輿入れさせるなどして、同盟を結びます。
越後の上杉謙信に対しても、贈り物と「アニキと呼びたい」的ファンレターを送っています。謙信への贈り物として有名なのが、南蛮のマントです。(信長から贈られたマントという確証はありませんが)
しかし、信玄、謙信に対しては「近所だから、とりあえず、仲良くしておこう」という心理は分かりますが、信長は、京の遥か向こうの毛利元就にまで、お手紙を出しています。
毛利元就に対しては「オヤジと思ってます」的態度で接し「朝倉攻め」では「これから越前に向かいます」と報告し「姉川の合戦」に勝った折には、戦勝報告もしていました。
「アニキ」「オジキ」「オヤジ」
なんか、反社な感じですね。
とにかく、中央を固めるまでは、外交で凌ごうとしていたのは確かですが、同時に彼等を尊敬していたのではないでしょうか?
「いずれ、全員ぶっ潰す」とは思っていたでしょうが、腕一本で戦国を勝ち上がった諸先輩に対し「あいつら、マジ、カッケー」と思っていた節もあります。
岐阜の義父の事も、信長は尊敬していた様子が伺えます。ま、義父が生きてた頃は、岐阜は井之口でしたけど…
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