武士と侍 #武士 #侍

武士と侍


【ザックリ武士とは何か?】
武士とは何か? といっても、哲学的なお話ではありません。
まんま、武士とは日本の社会において、どのような立場であるか? というお話です。
【そもそも「武士」は「侍」ではない】
現在、というか、江戸期以降になって、便宜上、武士も「侍」と呼ばれるようになりましたが、侍とは、本来、宮廷内の最下層の地位、その階級の名称になります。
「侍」=はべると言う意味で、貴族の用心棒、親衛隊つまり戦闘員でした。いつも貴族の傍に侍るので「侍」の字が付けられ、古語では「侍うさぶらう」と読んでいた事から「さぶらい」…「さむらい」となった様です。江戸時代にも、公家に付く侍はいて「公家侍」とか「青侍」とか呼ばれていました。
江戸時代には、武士等から、この「公家侍」に転身(転職)する人も居たようですが、しかし、基本的に「公家侍」と「武士」は別物です。外見上、一番の違いは公家侍は月代さかやきを剃っていませんでした。その理由については、また別の機会にお話しします。
【それでは、武士とは一体何者なのか】
簡単に言ってしまえば「農民の親分」です。平安の頃まで、日本も、諸外国と同様、農民とは貴族の奴隷でした。「開拓に行ってこい」と命令され、日本国中に開拓の旅に行かされますが、開拓先の生産は全て中央に持ってゆかれる。しかも、新規の開拓も命じられる。やがて、開拓民の中に「やってられるか」という気分が高くなり、新規開拓とは名ばかりの、土地を捨てて別の畑を作るような、広がりのない開拓も始まります。奈良時代(西暦743年)「墾田永年私財法」なるものが施行され、開拓のモチベーションを上げようとしますが、永年とはいえ結局「孫」の代までだったので、開拓民のモチベーションは上がりません。(現代と違い、祖父母と孫の年齢差は短い)
開拓民を辞め、盗賊になる者も多く現れ、同じ開拓民同士で土地を争ったり、水源を争ったり、農民社会にアウトレイジ非道な行動が蔓延し、村を要塞化、武装し始めます。そのリーダー達がいわば武士の始まりで「命懸けで土地を守って、なんで中央に吸い上げられねばならない」という思いが強く成ります。
「ひとつの所領に命を懸けよう」というスローガンも生まれました。これが、今に伝わる「一所懸命」です。(転じて「一生懸命」の言葉も生まれる)農民の親分「武士」は、武力を背景に、貴族に対し、土地の所有権を認めるように迫ります。
この辺りが、日本史の面白いところで、外国の様に権力者を滅ぼそうとしません。
例えば、天皇家に代わって、藤原氏が実権を握りましたが、藤原氏天皇家を滅ぼして、藤原天皇にはなりませんでした。「権威」として天皇家を残し、実権のみを得ました。同様に、武士は藤原氏(貴族)を滅ぼさず、「所有権を認めてくれれば、毎年きまった小遣いを上げよう」という条件を提示し、滅ぼそうとしませんでした。(だから日本史は文献の宝庫となった。と私は思っています)
貴族側からすると、もちろん不満に思う者、反対者も居ましたが「それも悪くない」といった所でしょう。領国経営をアウトソーシングにして、上りのパーセンテージを貰う方が楽でもありました。代わりに、武装軍団を養うだけの財力は無くなり、本来の「侍」も「露払い」と「太刀持ち」を雇う程度になります。
【「労働こそが尊い」という思想が生まれる】
農民毎の格差は生じても、基本、土地が自分のモノになった事で、「年貢」という納税義務はあるものの「働けば働くほど、自分のモノに成る」という事は、新規開拓のモチベーションを上げました。労働者階級が権力の座に就いた事で「労働こそ尊い」という思想が生れます。農民から商人、工人に至るまで、日本人が勤勉なって行く時代が生れます。「退職金」「賞与」「学習塾」の原型も、室町時代には既に誕生しています。(江戸時代からという方もおられますが、文献等を見る限り、室町期からだと思います)戦乱の世に? と思われるかもしれませんが、基本が農民同士の戦いなので、生産の季節と戦いの季節、生産する人と戦う人、に分かれていて、京都は別にして、意外に荒廃した世でもありませんでした。
私見ですが、共産・社会主義も「分配のすばらしさ」から、ではなく「労働の尊さ」からスタートすれば、うまくゆくのではないか…とも思います。
【農民が卑屈で弱々しかったというのは天才・黒澤明の演出】
江戸初期。少なくとも「大坂の陣」や「島原の乱」頃までの農民は、決しておとなしくも無いし、オドオドもしていませんでした。(個人レベルでは分かりません)以前、映画「七人の侍」を紹介した時も書きましたが、農民が地べたに這いつくばり、オドオドして戦火に右往左往していたというのは、天才・世界の黒澤明の演出でしかありません。あの、映画の印象がそのまま、半世紀以上も日本のみならず、世界でも信じられている傾向があります。日本人が、本当に行政に依存し始めるのは、江戸期、それも、中期以降からでした。映画・七人の侍へ
【武士は貴族ではない】
たまに、欧州の騎士と日本の武士を横並びに語られることがあります。これは、欧州の教養番組でも、似たような比較があって、イギリスの特集番組等でも、騎士と武士が同列として比較されていたりします。しかし、騎士は貴族の軍団で、日本で言えば公家の軍団こそが、騎士と同等な存在になります。武士はあくまで、農民の代表なので、騎士ナイト・フットではなく、農兵ウォリアーになります。
江戸時代に日本に来た「朝鮮通信使」も、日本で「士農工商」の「士」を武士としている事を、その日記の中で嗤っています。「士」とは本来貴族を指し、日本では「公家」こそが「士」だったからです。
【余談】
海外の日本史研究者の方が「鎌倉から明治維新まで、日本は軍事政権が続いた」と表現されたりします。私は、これを一概に間違いだとは思っておりません。「そういう見方も、ある意味正しい」と思っています。しかし、私個人は「武士という頭領を頂いた、農民政権が続いた」と考えています。だから、武士の給料は「米」であったし、大名の価値も「石高」でした。しかも、厳密には大名は土地を所有しているわけではなく、領国から税を徴収する権利、行政権があるだけでした。ですから、江戸時代、元禄バブルの頃は、小さい農家は土地を売って、京、大坂、江戸、等に出、田舎ではバケモノ級の「大地主・大百姓」が誕生します。中央集権制の様な「」に土地を返す。という感覚はありませんでした。
【ザックリでしたが】
これが、私の思う、武士とは何か? でした。ここまで、読んで頂いた方の中には、別の考えもある方もおられるでしょうが「こういう見方もありますよ」的に読んでいただければ幸いです。
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