武士の月代 #月代 #松永久秀 #武士 #戦国

武士の月代


武士の月代さかやき
今夜の「麒麟がくる」では松永久秀が自害しますが「爆死」が採用されるのでしょうか?
信長公記」では「自ら猛火の中に入って、一族郎党共々焼死した」とありますが、私は「平蜘蛛」茶釜に火薬詰めて爆死の方が良いな…と思います。なんか、梟雄・松永久秀の最後に相応しい感じがします。
ドラマの中で、明智光秀は武士の象徴の一つ、とも言える「月代」を剃っていませんね。
男前の長谷川博己さんのイメージにそぐわないからでしょうか?
実際の光秀は、信長から「金柑きんかん頭」と渾名されていて、月代を剃る以前に禿げていた様です。
「月代」
江戸時代に入ると、百姓から、町人、商人に至るまで「月代」を剃る様になり、国民的ヘア・スタイルとなりますが、始まりは武士の出陣時のみ、兜で頭が蒸れるのを防ぐために剃っていたものとされています。他、兜の座りを良くする為とか、その両方という説もありますが、やがて、いつ出陣があるか分からなくなると、嗜みとして、常に剃っておくようになります。
髪の毛は一日で0.3~0.4ミリも伸びるので、剃髪だと一日やそこいらで目立つようになるため、毛抜きを使って抜く方が多かったようです。(それでも、そのうち生えてきますが)
【剃髪、抜毛は儒教的には蛮行となる】
この月代を剃る行為は、儒教的には大変野蛮な行為になりました。明や李朝では剃髪はしませんでしたし、日本でも武士登場以前に、大陸と直接外交をしていた藤原氏公家の間には月代を剃る習慣はありませんでした。ついでながら公家侍が月代を剃らないのも同じ理由からです。
北方の満州族が明を倒し「清王朝」を打ち立てた時、満洲民族は漢民族に対し「辮髪」の習慣を押し付けます。辮髪は後頭部の髪の毛だけを伸ばし、三つ編みのお下げにするヘア・スタイルですが、頭部前面や揉み上げの部分は、剃るか、抜くかをしていました。これは、漢民族に耐えられない事でした。支配はまだ我慢できても、蛮族(と思っている)の蛮行を押し付けられる事は耐えられなかったようです。辮髪に(一概に辮髪だけではないですが)猛反発した、漢民族が外国へ亡命、亡命先で商売をし、反清国勢力に送金する人々が生れます。これが「華僑」の始まりと言われています。
【何故、剃髪、抜毛は蛮行と考えられたか】
現代の日本でも、若干ですが、タトゥーやピアス、をすると「親から貰った身体に傷を付けた」的な感覚が残っていますね。親に貰った身体に、自ら傷を付ける事は、儒教的には最大親不孝のひとつになります。ですから、自ら入れ墨を入れる等は、不良、反社会的なイメージになりました。
【因みに】
江戸時代の日本でも、月代を剃らない人々が居ました。先に触れた「公家」と、儒学者儒学に通じた、武士、町人、百姓。他は、医師。医師は総髪か完全剃髪でした。
【さらに因みに】
江戸時代を舞台にした時代劇の髷を一般に「丁髷ちょんまげ」と呼びますが、正しくは「銀杏髷いちょうまげ」と言います。丁髷は書道の「チョン」の字の様に短いモノを言いました。かつて、ポニー・テイルを「チョンマゲ」というオジサン達が居ましたが、ポニー・テイルは日本的には「茶筅ちゃせんまげ」になります。
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