俺様主義「織田信長」 #信長 #独裁者 #元就 #英雄

俺様主義「織田信長

毛利の傘連判には平等思想が表れている

今夜、明智光秀がとうとう、信長の勘気に触れてシバカレるみたいですね。
ドラマ上のシバカレ理由は、観てからの楽しみですが、光秀が信長から、パワハラを受け、居並ぶ家臣達の面前で、鉄扇で殴られた。或いは小姓・森蘭丸に殴らせた。というお話は、今でも時々戦国ドラマでも使われます。
長篠の戦い」の後、つい、光秀が「我らも骨折った甲斐があったというもの」と漏らした事に、俺様主義・信長が腹を立て「うぬが何時骨を折ったか」と殴った。という話もあります。
この話が本当であれば、信長からすると「天下布武」の立案から戦略、戦術、作戦の全てをプロデュースしたのは、俺様で、苦心したのもこの俺様だ。お前は、その指図通りに動いただけだろう。という、気分だったのでしょうね。
【日本は「俺様主義」を許せない】
戦国の昔、織田信長帝国を除けば、独裁者国家はありませんでした。
武田信玄上杉謙信毛利元就も、後に天下人になる徳川家康。徳川政権でさえ、基本は合議体制であって独裁体制ではありません。
何度も書いてきましたが、私は、武士は農民のリーダーという見方をしています。つまり当時の主要労働者階級のリーダーである武士が、折角、貴族の支配を嫌って独立したのに、土地も財産も、人間個人さえも、私物化するよう独裁体制は嫌って当然だったと思います。
信長の周辺も、当初は、我が所領の安堵、もしくは増領してくれる、頼もしいリーダーとして見ていたと思いますが、勢力が拡大するにつれ、所領を取り上げられてゆく感覚に変わって行ったのではないでしょうか?
【有名な毛利の傘連判状】
毛利領は信長が台頭してくるまでは、日本最大の大名でしたが、政治のシステムは合議制です。
毛利元就の時代、家臣達と交わした「唐傘連判状」もしくは「傘連判状」ともいいますが、この連判状の意味は、平等を示すためのものでした。事実上のリーダーは元就ですが、当時の武士感覚をよく表れていると思います。こうした武士の感覚と、信長の独裁体制は、気持ちとして「水と油」だったでしょう。
【傘連判状に書かれていた一文】
毛利の傘連判の一文に「進攻先では、その土地の人々(非戦闘員)に対しては、乱暴、略奪を働いてはならない。働いた者を見つけた場合、それが、他家の配下の者であっても処断する事」とした内容がありました。
「謀略の神様」元就は、進攻先の領民達の心を掴む術にも長けていました。こうした気配りで、元就没後も「中国者(毛利)は律儀(優しい)にて候」という、イメージを天下に知らしめています。
【余談・ハンコの廃止】
傘連判状には毛利元就をはじめ、家臣の名前が書かれています。その下に「花押」と呼ばれる、サインが書かれています。現代のハンコと同じ意味がありますが、この「花押サイン」が「面倒くさい」と思ったのが、織田信長でした。岐阜を手に入れてから、書類が多くなった信長は「天下布武」というハンコを作り、花押の代わりに押すようになります。
ハンコ自体は、それ以前からあるのですが、書類に印鑑は信長が広めたと言われています。
サインが面倒で始まったハンコですが、現代では、無駄が多いので、廃止の流れになっているのは、ちょっと本末転倒な気もします。
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