本能寺ら辺りのお話 #謀反 #光秀 #信長 #伊丹 #清酒 #本能寺の変

本能寺ら辺りのお話


【みんな、光秀を唆すそそのか
しかし、公方様といい、家康といい、光秀を唆しますね。家康と話をしている時の、光秀の唇が紫にメイクされていたように思いましたけど…荒木村重も、家来の足軽の一部が(一向門徒だったらしい)、本願寺に兵糧を横流ししていたことが元で「叛意有り」と見られ、毛利方に寝返ったと言われています。一度、疑いを持てば、決して許さない信長の事。村重も寝返るしかなかったのでしょう。信長は、徳川に嫁がせた娘・徳姫のチクリにより、家康の息子・信康と妻・築山殿の武田家に内通を疑い、殺させますが、同盟者とはいえ他家の問題です。横暴極まりないですね。家康も逆らえない状態だったのでしょうが、信長の精神状態も、かなり、おかしくなっていたのかもしれません。
【やはり晩年が仇となっている秀吉】
前回の「弟」と呼ばれる間者の密殺といい、今回の荒木村重説得時の秀吉の態度。信長に報告した後、光秀に対する態度といい、近年、秀吉は良く描かれませんね。ちょっと可哀そうです。
秀吉は、天下の継承者の資格を得ても、少なくとも「小牧・長久手の戦い」頃までは、元同僚達に対してもあまり高圧な態度は取れていませんでした。まだ、強く命令出来ない立場だったからこそ、小牧・長久手に陣を張らなくてはならなかったし、家康の本拠「岡崎」を突くという「中入れ」(奇襲)にも、強く反対できていません。1578年頃の秀吉は、あんな、あからさまに嫌な人柄ではなかったと思います。
【伊丹・有岡城
荒木村重の居城で、説得に訪れた羽柴秀吉の軍師、黒田官兵衛が一年も地下牢に幽閉された事で有名です。清酒の街としても知られています。
清酒
桃山時代末期に、伊丹で誕生したと言われています。それまでの日本酒と言えば、いわゆる「どぶろく」濁り酒でしたが、ある時、杜氏と蔵元が賃金の事で揉め、杜氏が腹いせに、樽の中に藁灰をぶちまけて、出て行ってしまいました。
「もう商品にはならないな」と思った蔵元でしたが、樽の中を覗いてみると、酒粕?と清酒に分離されていたそうです。灰を混ぜる事で清酒が生れたと言います。
伊丹が「清酒発祥の地」として、頑として譲らない姿勢を見せておりますが、他にも、奈良県正暦寺清酒発祥の地とする説もあります。「文献上明らかである」とする正暦寺派ですが、根拠として、室町時代の酒造記「御酒之日記」の中に、正暦寺で造られている清酒の製造方法が、詳細に記されているとされています。他、興福寺の「多聞院日記」にも、正暦寺の酒造りについて書かれていると言われています。正暦寺の「諸白づくり」こそが、日本清酒の原型と主張されています。その文献が正しければ1440年頃から、清酒は造られていた事になります。
【しかし、寺が酒造り?】
という疑問も湧きますが、これに関しては、正暦寺の財政難を補うためだった。と言われています。なんか、シャンパンの出来た経緯に似てますね。ご存知の方も多いと思いますが。シャンパンはフランスのシャンパーニュ地方で、キリスト教修道士「ドン・ペリニヨン」の手によって作られました。略して「ドンペリ」ボトルキープ出来ないから、キャバ嬢とかホストさんがメッチャ推めるやつですね。今でこそ高級品ですが、出来た当初は失敗作でしかありませんでした。発酵する際に出る炭酸を逃がすことが出来ず、酒に溶け込んでしまっていたからです。今では、日本酒の中にも、わざと炭酸を外に逃がさずシャンパン風に仕立てる日本酒もありますが、もともとは素人の失敗作だったんですね。
話がそれました。清酒の発祥地に関しては、諸説あって、どこも譲ろうとしませんが、清酒が伊丹で大量生産され、大坂表を通じて全国販売が始まったのは、なんと1600年関ケ原の年であったそうです。これは物流の記録として確かなようです。
清酒の元祖説。個人的には伊丹説を取りたいですね。杜氏と蔵元が揉めた感じが面白いです。
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