青天を衝け 今夜第三回 #吉沢亮 #草彅剛 #大河ドラマ

青天を衝け 今夜第三回

江戸時代の世襲制

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世襲制
世襲」と言うと、現代ではあまり良いイメージはありません。二世議員とか二世タレント、会社なんかでも、散々遊び惚けていた跡取り息子が、ある日突然、専務に待遇で「チース」みたいな感じで現れて、仕事は何もできないくせに、立場だけは上。みたいなイメージがあります。
江戸時代も基本「家」「役職」等は「世襲制」でした。江戸初期、将軍の後継者を基本、嫡男、第一子に決める事で、後継者争を防ごうと考えら、それが基本となったと言われています。
【そして物心つけば】
世襲制だからと言って、跡取りは、好き勝手に遊び惚けている訳ではありませんでした。物心つきはじめる、四歳頃になると、早くも、家業に関する教育が始まります。そして、次男、三男坊などが生れれば、同様の教育を施します。弟たちが分家できる例は稀でしたが、世継ぎが夭逝した場合のスペアとして、同じ教育を受けていました。
【例えば吉田松陰
吉田松陰は、僅か十三歳で、長州における、山鹿流兵学師範として教鞭を取っていましたが、松陰が飛びぬけて優秀だったからでもありません。まあ、優秀ではあったとは思いますが、松陰も四歳の頃から、叔父から吉田家の稼業としての教育を受けていました。十三歳とはいえ、既に、九年のキャリアがあるのと同じですね。大抵は十五歳から実務に着いていましたから、十三歳という松陰は早い方ではあります。
【例えば井伊直弼
井伊直弼は、本来、井伊家を継ぐ立場ではありませんでした。兄が夭折した為に急遽大老職を継承します(井伊家の場合、大名家ですから、複雑な養子縁組がありました。単純な兄、弟の問題ではありません)。直弼が継承して直ぐに実務をこなせたのも、スペアとして幼少期から兄達同様の教育を受けていたからです。「安政の大獄」で「井伊の赤鬼」として、恐れられましたが、部屋住みの生涯を送る者。と覚悟していた直弼自身は、絵、和歌、茶の湯能楽、剣術、等を愛した、心優しい一文化人として生きようとしていた人でした。
【注目すべきは】
教育の根幹として、「我が○○家は、○○という職務のお陰で録を頂いしている。」とし「学問と言えども、それは公務にあると思え」だから、「真剣に取り組め」という教えだった所でしょう。
極端な例ですが、吉田松陰がまだ「虎之助」と呼ばれていた頃、叔父からの授業中に、頬に蚊が止り、それを掃ったが為に殴られます。
「学問は天下のものであり、それを学ぶ時は公務の時である。頬が痒いからと掻くとは私の事。公私混同もはなはだしい」と叱られます。吉田家の場合は、ちょっと極端な例ではありますが、当時の武士の家庭ではこうした教育が基本であって、世襲イコール安泰というものでもありませんでした。
【英才教育】
このような英才教育システムの長所は、凡庸な人物でも、それなりに仕事の出来る人間に育てられるという所にありました。
吉田松陰
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航した際、吉田松陰は師である、佐久間象山と黒船を遠望し、その技術の高さに心を打たれ、西洋に留学したいという思いに駆られます。
同年、長崎に寄港していたプチャーチン率いるロシア軍艦に目を付けた松陰は、弟子の金子重之輔と共に、乗り込もうと計画しますが、同艦はヨーロッパで起きたクリミア戦争に英国が参戦した事情から予定を繰り上げて出航してしまい、密航は失敗に終ります。
翌・嘉永7年(1854年)、ペリーが日米和親条約締結のために再航した際に、また、弟子の金子重之輔と共に、小舟で旗艦ポーハタン号に向かい、ペリーに渡米を願い出るが、米国側は日本との摩擦を恐れて、その心意気は認めつつも拒否されます。吉田松陰下田奉行所に自首。伝馬町牢屋敷に投獄されたのち、国許蟄居。松下村塾で教鞭をとる事となります。
松陰は、周囲に「幕府こそが日本最大の障害」と批判し、倒幕論を公言しはじめ、長州藩に危険視され、再び、野山獄に収監されてしまいます。
安政6年(1859年)、「安政の大獄」で、若狭・小浜藩士・梅田雲浜うんぴんの弟子が幕府老中・間部詮勝まなべあきかつの暗殺を計画。雲浜も幕府に捕縛されます。雲浜が萩に滞在していた折に、松陰とも意見を交換していたことから、連座する形で再び、江戸・伝馬町牢屋敷に送還。雲浜が萩滞在時の会話内容確認が主でありましたが、松陰自らが老中暗殺計画を告白し、この結果、松陰は死罪となりました。安政6年10月27日(1859年11月21日)享年30歳の若さでした。
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