印刷・製本の歴史話 #印刷 #製本 #活版 #グーテンベルク

印刷・製本の歴史話

渋沢栄一の従兄・尾高惇忠

【江戸時代の本】
渋沢栄一が従兄にあたる、尾高惇忠おだかあつただ宅に「読書に伺えなくて申し訳ね」と言い、惇忠が、「浜田弥兵衛の本を手に入れたので、暇が出来たら読みに来い」という場面がありました。
物流の盛んになった桃山時代から後、識字率の髙かった江戸時代は、読書人口も増え、出版業も盛んでした。幕末に来日したハリスの秘書・ヒュースケンも、その日記の中で、日本ではどんな小さな町にも、ソルジャー(侍)が居て、医師がいて、本屋がある。と記しています。娯楽的読み物から、数学に関する本も扱われていた様で、ヒュースケンは特に、本屋がある事に驚いています。
しかし、昔の製本は大変な労力を要しましたから、現在ほど大量に出版出来ず、一冊何両というほど大変高価なものでした。買い上げることが出来るのは、武士でも身分の高い者、お金のある大百姓(尾高惇忠家はこれにあたる)や商人でした。
文字が読めても、本を買える人は少ない。そこで活躍した商売が「貸本屋」です。
貧乏な武士等は、本を持っている者から借りたり、何人かで一冊を買い、それぞれが写本したり、貸本屋から借りて写本していました。町人たちも、貸本屋から借りて読書していました。
貸本屋も街中に店舗を構えていましたが、殆どは、ここを基地として、近在を巡回する型の貸本でした。第二次大戦後間もない頃まで、この巡回型の貸本屋は沢山あったようです。
昭和の終わりころになると、店舗型の貸本屋も殆ど無くなりましたが、平成中期頃から形を変えて、再燃して来、TSUTAYA等が店舗型貸本を始め、現在ではネットでレンタル出来るようになりましたね。
活版印刷
活字印刷、活版は1100年頃に中国で発明され、日本にも1300年頃には伝わってきています。
東洋の文字が基本正方形なのも、この活版の都合からと言われています。
【活字とは】
わかり易く、アルファベットで例えますと、理屈上、26文字の活字が揃えば、どんな文章も自在に組める訳ですが、現実、文章内には同じ文字が複数存在するので、百組以上もの26文字活字が必要になります。しかも、文章に合わせて、採字して行く手間は大変で、そこから印刷用の枠にはめ込んで行かねばなりません。実際の出版までに大変な時間が掛かりました。
1607年.明代末期に出版された「明史」の「平壌録」も、「明」の側から観た「朝鮮の役」の記録本(活版)ですが、終戦から、実に十年も経って出版されています。
【活版から版木印刷へ】
江戸時代、出版業が盛んになると、「井原西鶴」や「滝沢馬琴」等の作家も登場し、早いサイクルで出版される本も登場します。これが、活字印刷ですと、文書を書く→文書に合わせた採字→文章に沿って文字を枠にはめ→印刷→印刷後の製本になる訳ですが、版木印刷だと、書いた文章を薄剥ぎし(和紙は何層かに分かれていたので「薄剥ぎ」という技術がつかえた)版木に裏返しに貼り付けて彫れば、そのまま印刷出来る利便性がありました。しかも、活版の様に印刷後枠を崩す必要がないので、再販、増刷も簡単という利点もあります。
小説等の「読み物」や、所謂「瓦版」(正しくは「読売」と言ったが、違法出版物だった)はこの版木印刷でした。特に、瓦版は早さが要求されますし、取材から出版まで自分一人で出来るので、例外なく版木印刷でした。勿論、改まった公式本等は、旧来の活版印刷が行われていました。
【ヨーロッパの活字印刷の祖グーテン・ベルク】
1390年ごろにドイツのマインツに生まれ、ヨーロッパにおける金属活字を確立したとされる人物ですが、それを証明できる記録は一切なく、事実上伝説の人物。
エピソードとして、ベルクさんは、締め切りに追われながら、版木印刷文字を彫起こしていて、手が滑り、版木を傷つけ、途方に暮れていましたが、版木から無事だった文字を切り離し、それを組み合わせる事で、締め切りの危機を乗り切ったといいます。
これが、活版の始まり。というお話ですが、先に述べた様に、活版は意外に手間がかかるので、もし、版木を傷つけたのであれば、最初から彫直した方が早かったでしょう。もしくは、傷の程度によっては、そのまま印刷しても問題はなかったと思われます。
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