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江戸時代の食事事情

江戸時代。庶民の食べるご飯の量は半端なかった

【杓子と杓文字】
平岡円四郎なる人物が、慶喜公の小姓になりました。旗本らしいのですが、長屋住まいなのは驚きました。円四郎に対し、一橋慶喜公は、「自分を諫める臣となって欲しい」と言います。こんな事を言えるなんて、やっぱり偉い人です。
しかし、小姓は、大抵、年の若い少年が務めるものでしたから、円四郎はいささか年を取り過ぎている感がありますね。慣れない給仕で、ご飯を「てんこ盛り」してしまう円四郎ですが、江戸時代の庶民感覚では、ご飯は、てんこ盛りが普通。副食は余りなく、大量のご飯で腹を満たしていました。しかも、江戸庶民は玄米が食えず、白米にして食べていたので、ビタミンB不足で、脚気になる者も多かった。脚気は、都市部に多かったので「江戸病」「大坂病」等と呼ばれ、明治後期に至るまで、原因が究明されませんでした。
話が脇にそれましたが、慶喜公が円四郎に、給仕の仕方を教えてゆきます。これが、慶喜公の真骨頂ですが、「杓文字」を「杓子」と説明していました。杓子が正しいのですが、女性たちの間で「後ろにモジって付けた方が可愛くない?」で杓文字となったそうです。いつ頃から、言われ始めたのか判りませんが、昔のギャル語だったんですね。
因みに、平岡円四郎、1864年に43歳の若さで暗殺されてしまいます。
【日本の原風景】
農家をねぎらう宴の場面がありました。メイクのせいもあるでしょうが、角兵衛役の渡辺哲さんは、老けられた感じでしたね。
あのような、農村のねぎらいの宴。私の幼少期、田舎ではまだありました。村のおばちゃんたちが集まり、庭などにも急ごしらえのカマドを作って、宴会の準備をしていたものです。田舎で、ロクなイベントも無かった頃ですから、大人たちの集まる、村の宴会は祭りみたいで、子供ながらウキウキしていたものです。
【お台場】
ペリー再来航で「品川台場」(大砲場)が築かれていました。ドラマでは「日本は開国を拒むつもりか」とペリーは言いますが、ペリー側の記録には「僅か数か月(八カ月)でこれほどの大砲場を築いている」という、工期の短さに感嘆しています。実際、完璧に仕上がっていた訳ではありませんが、これは、ペリー側に精神的圧迫を加える事には成功し、江戸上陸を諦めさせ、横浜に行かせる事に成功しています。
【銭と金】
しかし、岡部藩も酷いですね。ドラマとしての演出もあるのでしょうが、高額な御用金を当たり前の様に要求していました。当時、「武士は、かねは扱っても、銭は扱わない」と言われていました(あくまでも基本的に)。銭は庶民のもので、御用金には、一度、金に換金しなければならなかったと、言われています。ドラマでは、銭も含まれていましたが、幕末の非常時でしたから、もうそんな事には拘って居られなかったのかも知れませんね。
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