江戸時代の「無礼討ち」のお話 #無礼討ち #切り捨てごめん #幕末 #上田馬之助

江戸時代の「無礼討ち」のお話


【斬り捨て御免】
岡部藩・陣屋の利根吉春に口答えした渋沢栄一に対し、刀(脇差)の柄に手を掛けた吉春でしたが、手討ちにあっても仕方ない場面だったのかも知れません。
「お手討ち」正式には「斬り捨て御免」と言ったそうですが、実際には、無暗に行われませんでした。「斬り捨て御免」には条件があります。
ひとつは、一応、武士の立場プライドを著しく傷つけた場合。もう一つは、生命の危機を感じた場合、つまり正当防衛である事でした。
武士の立場に関しては、詮議捜査された結果、動機が「腹を立てた」等、感情に任せて斬ったと判断されると「殺人」とみなされて、本人は切腹、お家もお取り潰しになりましたから、刀の柄に手を掛けても、先ず斬りつける事はなかったようです。
要するに、無礼による斬り捨ては、武士としての建前だったわけです。
もう一つの、正当防衛の場合も、江戸時代は「喧嘩両成敗」の考えが強かったので、余程の事でないと「斬り捨て御免」は成立していません。
上田馬之助
世代によっては「プロレスラー」を思い浮かべられる方もいらっしゃると思いますが、江戸時代に実在した武士です。銀座の料亭で、酔っぱらった武士二人に絡まれ、相手を斬り伏せましたが、子供連れであり、絶体絶命の状態から、子供を守ろうとしたことが考慮されて「斬り捨て御免正当防衛」が認められています。
【方や、次のような例も】
ある武士が、無頼漢な町人にダンビラ刃物で襲われ、反撃。一度は正当防衛として認められましたが、町人の遺族達が判決を不服とし、武士宅の門前に交代で座り込みを続けます。
藩は世間体が悪いとして、武士に切腹を申し付け、町人遺族に「これで了見せい」と言った例があります。
【幕末】
幕末になると、京都を中心に「天誅テロ」などが横行した事と、対、治安隊による「見廻り組」「新選組」等による、斬り捨て沙汰は増えますが、これは、世情不穏の為で太平な頃の江戸時代は斬り捨て御免は殆ど行われてはいません。
【ペリーのこぼれ話】
日本から帰国したペリーは、日本の事を高く評価したらしく「遠からず、日本はアメリカの脅威となるだろう」という意見書を政府に提出します。
しかし、当時の米政府は「黄色い東洋人が?」と嗤い「ペリーは長い船暮らしで頭がおかしくなった」とまで言われました。この発言が元で、ペリーは段々と閑職に回されて行きますが、ペリーの報告から僅か四十数年程後、日露戦争に勝利した日本を太平洋最大の脅威として、米国は警戒する事になります。
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