謎多き名将「大谷吉継」 #大谷吉継 #違い鷹の羽 #大谷刑部 #戦国 #関ヶ原

大河ドラマ「青天を衝け」第五回を観終わって③

五奉行連判状

「違い鷹の羽」紋で、大谷吉継に触れましたが、もう少し触れてみたいと思います。
【大谷刑部】
天下人・豊臣秀吉に「あの大谷に百万の兵を采配をさせたいもの」と言わしめた漢。
【にも拘らず、】
豊臣政権下での石高は五万石でしかありませんでした。秀吉は、頭に才覚のある者には、五奉行に着け、権力は与えましたが、石高は高く与えませんでした。
権力に加え、飛びぬけた財力があれば、それは、もう「鬼に金棒」状態になるので、バランスを取ったんでしょうね。当時の五奉行としては、石田三成浅野長政長束正家増田長盛前田玄以、が挙げられますが、いずれも権限の高さの割に、所領となる石高は低いものでした。
【有能でありながら、奉行でもない吉継】
吉継は勇猛であり、知力もありながら、特別大きな地位には付けられませんでした。
【吉継病に倒れる】
しかし、大谷吉継が病に倒れた時、豊臣秀吉は、日本最高の医師団を編成し、しかも、自らが先頭に立って、吉継の為に、眠ずの祈祷をしています。いくら子飼いの大名とはいえ、吉継に対する秀吉の気持ちの入れようは尋常ではありません。
大谷吉継の出生は謎に満ちている】
没年は、1600年の関ヶ原とハッキリしていますが、何時、どこで生まれたのかは謎に満ちています。最近では、北政所(ねね)の取次役「東殿」の子である事が確実視されているようです。
この「東殿」とは、北政所の古くからの知人、縁者らしいのですが、秀吉がこの東殿と姦通して出来た子供が、大谷吉継ではないか? と言われています。
【秀吉には何人か子供がいた】
秀吉の子と言えば「秀頼」が思いつきます。なんだか、秀頼だけしかいなかった様な印象もありますが、長浜時代に「秀勝」、秀頼の前に「鶴松」が居て、いずれも幼くして亡くなっています。その他にも娘がいましたし、他にも、子供がいた形跡がありますが、いずれも行き方知れずになっています。
【秀吉の子は次々と暗殺されたのでは説】
北政所「ねね」さんは、所謂、石女うまずめだったらしく、子供が産めませんでした。「ねね」さんの事は大好きだった秀吉でしたが、跡継ぎの欲しかった為、外に子供を作ったのではないでしょうか? それを快く思わなかった「ねね」の勘気が、秀吉の実子を暗殺した感もあります。
実際、長浜時代の「秀勝」や秀頼の兄・「鶴松」も「ねね」さんと関わり合ったとたん、死亡しています。
大谷吉継も毒を盛られた】
吉継は、病により、顔が崩れたとされていますが、猛毒を盛られた疑いがあります。
ウクライナ大統領のビクトル・ユーシチェンコ氏は、食事にダイオキシンを盛られ、一命は取り留めましたが、二枚目だった顔が見るも無残にただれてしまっています。
北政所の勘気を恐れ、吉継を守ろうとしたのかも知れません】
秀吉は、北政所の魔手から吉継を守るために、能力を高く評価しつつも、石高は低く、特別な地位にも付けなかったのかもしれませんね。そして、何時かのタイミングで豊臣の後継者とする積りだったのかも知れません。

【ボンクラな北政所の親戚】
秀吉の親戚筋には、優秀な人材が多く、弟・秀長の他、加藤清正福島正則、等が居ますが、「ねね」さんの親戚には優秀な人材は見当たりません。特に、甥にあたる「金吾中納言・秀秋」後の小早川秀秋は、大ボンクラで、豊臣家を滅ぼす事しかしておりません。
秀吉は、邪魔になった秀秋を毛利家に養子に出そうとしますが、本家に得体の知れない血筋の入る事を恐れた、知将・小早川隆景が「是非当家の養子に」と願い出て、小早川家の養子となります。勇猛で鳴った小早川軍団を裏切りに使った、金吾秀秋の事は、先祖が小早川家に仕えていた(伝承ですが)私として許せないでいます。
「ねね」の血筋が一滴も入って居ない豊臣家の存続を、「ねね」さんは、どうしても許せなかったのかも知れません。
【政を行うものは石高は少なく】
という、システムは、徳川政権にも引き継がれます。
逆を言うと、徳川譜代の大名が「政治」をやりたければ、領地を返上し、貧乏になるしか有りませんでした。例えば、幕末、「天保の改革」で有名な「水野忠邦」等は、政治(老中になった)をやりたいが為に、実力二十万石の唐津藩から六万石の浜松藩に国替えを申し出たほどでした。
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