ネジと鉄砲 #火縄銃 #ネジ #幕末 #戦国 #鉄砲

ネジと鉄砲

螺子ねじの話

ドラマの中で、小栗上野介アメリカから持ち帰ったネジをお守りのように手にしています。
あのネジは、形状からして木ネジだと思われますが、ネジそのものは、日本でも戦国時代に既にありました。
それも、ちゃんとタップでネジ山を切ったものでしたし、戦国当時に使われていた、ネジ切りタップも現存しています。
小栗上野介が、ネジひとつに米国の工業力を見たのは、それが、従来のタップでは作り出せない、木ネジだったからだと思います。もしくは、ネジそのものは、江戸時代の生活には一般的ではなかった為、小栗上野介自身がアメリカで初めて、「螺子」というものを見た可能性もあります。
日本の螺子
螺子は、鉄砲の伝来と共に、日本にもたらされました。鉄砲は銃身の掃除の為に、尾栓が開かなければなりません。その尾栓に、ネジが刻まれています。これが、日本の鍛冶屋の見た、初めてのネジだったのでしょう。
しかし、当初、どうやって、このネジ山を刻んだのかが、わかりませんでした。そして、ここに、ひとつの伝説が生まれます。

若狭伝説

1543年以後予算種子島に南蛮船が漂着し、鉄砲が伝来。
種子島領主、種子島時尭ときたかは、「八板金兵衛」なる刀鍛冶に、火縄銃の製造を命じます。しかし、尾栓のネジが最大の問題になりました。金兵衛の作った銃は尾栓を鍛接しただけ、だったので、発射すると尾栓そのものが、撃手に向かって吹き飛ぶことになります。
南蛮人の火縄銃は、銃身の尾栓分部にネジ山が切ってありますが、当時の日本にはネジの概念はありませんでした。金兵衛にはどうやって銃身の底を強固するのかが判かりません。窮して、時尭に銃を壊して調べることを願い出ますが許可されません。
苦しむ父・金兵衛のために、娘である「若狭」がネジの秘密を教えてもらう事と引き換えに、南蛮人に嫁ぎましたとさ…。
この「若狭とネジ」話は、嘘です。嘘と言ってしまえば、身も蓋もありませんが、単なる伝説で、話を裏付ける資料や記録は一切残っていません。

現実は…

現在、鉄砲の伝来は1543年以前に、既に九州各地に伝来していたという見方が有力で、種子島伝来の火縄銃も、種子島時尭が二丁の内一丁を完全分解させています。(もう一丁は、島津氏を通じて、将軍・足利義晴に献上。これにより京都からほど近い近江国友も鉄砲の産地となる)
鉄砲は、使用後、筒内掃除の為に尾栓が開かなければなりませんから、直ぐにネジの仕組みを見つけられました。ただ、「どうやってネジ山を切ったのか」は、分からなかったと思います。

では日本の鍛冶屋はどうやってネジを切ったのか?

ネジは差し込む方を「雄ネジボルト」受ける側を「雌ネジナット」と言います。
日本の鉄砲鍛冶は、先ず、「雄ネジ」の方を作りました。一本の円柱形の鉄棒に、ヤスリで螺旋状に溝を刻んでゆきます。腕の良い鍛冶屋であれば、フリーハンドでも立派な「雄ネジ」を作れました。
鉄砲の製造は「貼る」もしくは「巻く」と言っていた
火縄銃の銃身を作るには、まず、真っ直ぐな鉄棒を鍛えます。
次に長方形の鉄の板を作り、それを最初に作った鉄棒に巻き付けてゆくようにして、筒状にして行きますが、最後に「尾栓」となる部分に、ヤスリで作った「雄ネジ」をかませて巻いてゆき、鍛くことで、筒内に「雌ネジ」の溝を作っていました。この方法は、現代の鍛冶屋が見事に再現しています。
そして、筒が出来上がると、銃身に強度を持たせるために、紐状の鋼を巻き付けて鍛えていました。
この作業工程から、「鉄砲を貼る」とか「鉄砲を巻く」と言われるようになります。
当初は、ヤスリでネジを刻んでいましたが、直ぐに、ヨーロッパからタップが伝来して来ます。

因みに

鉄砲が伝来するまで、日本には、螺子がありませんでしたが、「樽」もありませんでした。
日本で、樽が作られるようになったのは、恐らく、戦国末期から江戸初期に掛けてでしょう。
ヨーロッパ人。多分、オランダ人の持ち込んだ樽を見て、「あれと同じものを作ろう」と考えたようです。
それまで、樽の無かった日本では、土を焼いた「大甕」が使われていましたし、タライなども「耳タライ」といって、現在でも見かける「曲げワッパ弁当箱」と同じ作りでした。
所謂、「曲げ細工」と呼ばれるタライでは、水を張っても漏れやすく、床や畳を濡らさないように、漆塗りの盆に乗せて使っていたようで、長時間水を溜めていることは無理だったようです。
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