「五稜郭」 #五稜郭 #函館 #北海道 #長野

五稜郭

五稜郭

ヨーロッパ式。というかフランス式の要塞。五稜郭
函館の五稜郭が有名ですが、同時期に建てられた「長野県」の龍岡城五稜郭です。
規模的には、函館には及びませんが、立派な五稜郭
少し歪ですかね? 現在は小学校が建っています。
函館の五稜郭には星型の又の部分に、一本だけ角が突き出た様な形に成っていますね。
実はあの角、全ての又の部分にないと、要塞として余り意味がないそうです。
しかし、建設途中で予算が無くなり、止む無く現在の形になったとか…

長野・龍岡城五稜郭
正直、ちょっと詰まらない

渋沢栄一が、お金を増やしたのは凄いお話ですが、どういう仕組みを作ったのか、に興味があります。
あと、「コンパニー、コンパニー」ばかり言うとらんで、日本式の株式組織との対比なんかも、詳しくやって欲しい所です。
恐らく、渋沢栄一の真骨頂は、明治になってからなのでしょうけど、二十六回も費やして、幕末をやるだけの意味はあったんでしょうか? もう少しコンパクトでも良かった様に思います。

駿府に徳川家臣が集中

天下の総石高は三千万石と言われていた時代。徳川幕府の総石高は七百万石余りありました。
内、徳川幕府直轄領は四百万石。
物語中、その四百万石の家臣団が僅か七十万石余りの駿府に集中した形になっています。
「ただ録が欲しくて流れて来たのではない…徳川に何が出来ぬかと…」川村様は言いましたが…

関ヶ原直後も同じことがありました

関ヶ原の戦の後、上杉120万石と毛利120万石(毛利は石見銀山、貿易、分家等で実情徳川の250万石に匹敵していたと言われる)。
上杉、毛利、どちらも、30万石、四分の一に領地を削られています。
特に、毛利は、豊臣でさえ手を付けなかった(手を付けようとしたが、毛利の言い分を聞き入れている)、石見銀山を徳川に奪われてしまいました。
両家とも一気に貧乏になりましたが、家臣の殆どは離反する事も無く従いました。

一見美談なんですが

戦国末期になると、大半の武士が専業武士サラリーマン化になっていましたので、完全失業を恐れて付き従ったと観るのが自然でしょう。
私の先祖は、土地持ちの「地侍」、所謂「豪族」、江戸時代の「郷士」だったので、毛利のお殿様が去っても、従う事なくそのまま残っています。
それどころか、毛利輝元の代に毛利家に謀反して、コテンパンにやられています。
しかし、一銭の外貨も無い新政府も大変だったのではないでしょうか? 実際、大変みたいですけど。幕末を生き抜いた豪商に、三井、住友、鴻池(三和)、等がありますが、中でも「住友」は桃山時代から続いている、旧財閥です。
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