「渋沢栄一はあんな小さい事を言っていたのか?」
大河ドラマ「青天を衝け」第二十七八回を観終わって
「先生、攘夷はどこに行ったのですか?」
維新後、長州の武士のひとりが、桂小五郎(木戸孝允)に尋ねた言葉だと言います。
「そんな事もあったよね」
正確ではありませんが、桂小五郎は、こんな風に返したと言います。
「夷狄を討つとか、貿易は幕府主導でとか、もう、そんな事、言っている場合じゃあないんだよ」
勤皇派の指導者も、佐幕派の指導者も、「日本が一つにならねば」と、少なくとも途中からは、思っていたでしょう。(皆でないまでも)
四賢侯の一人、薩摩の「島津斉彬」公などは、もっと早い段階で思っていました。幕府砲術家の「高島秋帆」等も、アヘン戦争を知って、そう思っていました。
幕府の指導者も、当初こそ、「貿易、開国は幕府主導で」と考えていましたが、「それでは、日本は清国と同じになる」と考え始めた、勝海舟の様な人が現れた様に思いますし、何より、徳川慶喜公がそう考え始めたと、私は思っています。
しかし、世のエネルギーの大半は、「勤皇」と「佐幕」に分かれている。指導者連中も彼らを騙し騙し、「明治維新」を進めていたようにも思います。だから、井上聞多(馨)の様に、仲間から切り刻まれる、指導者的立場の人も現れたのでしょう。
島津幕府・初代将軍を夢見ていた島津久光
斉彬公の弟、島津久光は、倒幕後は徳川に代わって、「島津幕府」を開けるものと真剣に思っていました。
まあ、西郷隆盛や大久保利通が、そう思わせて薩摩藩を牛耳っていたんですが、蓋を開けてみれば、「王政復古」久光は一貴族におとされました。鹿児島に引きこもり、「西郷に騙された。大久保に騙された」と嘆きながら、腹いせに、毎晩花火を打ち上げさせたと言います。
「薩長だ」「徳川だ」など馬鹿げている
維新後、色々あっても、佐幕派・「蝦夷王国」として函館で戦った、榎本武明の様に、新政府に採用される人材も多くいました。渋沢栄一も幕臣だったのに、新政府に採用されています。
「薩長だ」「徳川だ」など馬鹿げていると、考えはじめている中で、徳川を誇示するような事を、果たして、聡明な渋沢栄一は言ったでしょうか?
でも、まあ、そこはドラマだし…ね
何故、荒れた東京を首都にしたか
明治になった当初、公家衆の意見から「首都はやっぱり京都でしょう」という事になりましたが、鎌倉期からこっち、行政施設を持たなくなった京都では、何をやるにしても、どうしても手狭であったり、場所が無かったりしました。新設するにしても、新政府にはお金がない。
そんな時、旧幕人のひとりから「東京を何とかしてほしい」という要望が入ります。
当時、やっぱり西の方が世界の玄関口、という意識が強かったこともあり、
「京・大阪は、今後放っておいても、発展するだろう。しかし、東京はこのままだと、荒れ果てた町になってしまう」
この言葉に、大久保らに名案が浮かびます。
「あ、そうか、東京なら、徳川時代の行政施設がそのまま残っている。そうだ、東京へ行こう…JR東○」
な、もんですから、徳川時代の行政施設と同じ場所に、日銀やらなんやらの施設が建っていたりするわけです。
それに、天子が東京に行く事で、国内外に日本の革命が成った事を知らしめる事も出来ました。
「遷都ではなく、あくまで、遊説の一環だから」
今度は、公家衆を騙し騙し、東京に移らせます。
現在は分かりませんが、割と最近まで、書類上、東京は首都ではなかった。と聞いたことがあります。だとしたら、ずっと、公家さん達を騙してるんですね。
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