思いつくまま「広島東洋カープ」古葉竹識監督逝く… #古葉竹識 #広島 #広島東洋カープ #カープ #赤ヘル

思いつくまま「広島東洋カープ古葉竹識監督逝く…

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初優勝を決めた時の古葉監督
思いつくまま「広島東洋カープ

大ショク!
広島東洋カープを初優勝に導き、その後、広島東洋カープの黄金時代を築いた、名将・古葉竹識監督が亡くなりました。八十五歳。
リーグ優勝四回、日本一、三回。カープが初優勝した年は、シーズンの序盤はアメリカから来たルーツ監督が指揮していました。ルーツ監督は広島東洋カープのユニフォームを刷新、チームカラーを「日の丸」からイメージした「赤」にし「赤ヘル軍団」が誕生します。
今でこそ「赤ヘル」で通っていますが、当時は「小学校の運動会みたいだ」と、本当に試合中継の度に、実況アナウンサーや解説者に笑われていました。
アメリカ人だったからこそ、チームカラーを赤にする発想が浮かんだんですね。
そのルーツ監督、滑り出しは良かったのですが、ある試合で判定を巡って審判に暴力を振るってしまいます。
小突いた程度だったので、リーグコミッショナー的にも「暴力とまでは言えない」としましたし、辞任するまでの事もなかったのですが、本人は「私のポリシーに反する」として辞任。後任として指名されたのが、コーチだった古葉竹識さんでした。

ルーツ監督は人を見る目があったんですね

古葉監督に変わってからも、いや、変わってからさらに、広島の快進撃は続きました。
そして、万年最下位だった広島東洋カープを念願の初優勝に導きます。
因みに、広島初優勝の1975年。巨人は球団始まって以来、初の最下位でシーズンを終わります。
監督は、74年に現役を退いたばかりの、ミスターこと「長嶋茂雄」監督でした。

広島東洋カープに対する思い入れ

私位から上の世代からすると、原爆投下以降、暗くなりがちだった広島に、何か、希望になる物を作ろうとして、市民・県民が少しずつお金を出し合って作った、球団でしたし、寄付も続けていた頃でしたから、なんか「自分たちの球団」と言う思い入れが強くあります。
しかも、発足当時は、「パシュフィックリーグ」しかなく、プロチームとして申請しても仲間に入れて貰えなかったといいます。
そこで、別リーグ、「セントラルリーグ」を作る訳ですが、新リーグにパリーグ筆頭の2チーム「巨人」と「阪神」が加わってくれたおかげで、パリーグより人気のリーグに成って行きます。

貧乏球団広島東洋カープ

広島は、今もって、両リーグ中、唯一、親会社を持たない独立球団ですが、だから同時に貧乏球団でもあります。
初代監督なんて、金策に駆けまわってばかりで、ロクにベンチにも居なかったと言いますし、現在でも広島で育った選手を繋ぎとめられるだけの年俸が払えなかったりもします。
漫画「巨人の星」でも、広島は殆ど話題に成らない。スター選手も、山本浩二さんが入団するまでは、衣笠選手位しか居ませんでした。
そんな、球団が初優勝した時、私は学校帰りに友人宅に、他の友達数人と寄せてもらい優勝の瞬間を観ました。そして、全員で号泣したものです。
古葉監督も、九州は熊本の貧しい家庭に生まれ、貧しさゆえに、プロ野球の選手を目指し、当時十二球団最下級、最貧乏球団の広島に来ました。
しかし、あー、古葉監督が亡くなったのは、本当に悲しいです。ご冥福をお祈りいたします。
なんか、訃報が続きますね。
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