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元寇」 鎌倉殿の13人 第七回を見終わって

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正直、面白い
私は、平安末期から鎌倉期に掛けての、所謂「源平時代」については、余り詳しくありません。
小説なども、司馬遼太郎先生の「義経」と、手塚治虫先生の「火の鳥」の「赤べえと白べえ」を読んだくらいです。しかし、今回の大河ドラマは面白いですね。
何度も言いますが、ちょっとコメディな感じが良いです。かしこまって重々しくない所が、返って分かりやすいです。
興味が湧いたのでちょっと調べてみました
伊豆で挙兵し、負け続けて、安房へ逃れ、千葉氏、葛西氏等の加勢を受けて、大逆転劇を演じ鎌倉に入るまで、僅か五十日程の出来事なんですね。
ザックリ程度に知っていた事ですが、そこまで、短かったとは思いませんでした。
しかし、「先の北条氏」(戦国期の北条は、という)は平氏の流れなのに、何故、平氏天下で、比較的、冷や飯食いな立場だったんでしょう。後に、本当に北条氏が武士のトップになりますけどね。少し、興味が湧いてきました。
上総と下総
地図で観ると、「下総しもうさ」の国が北にあって、「上総かずさ」の国が南にある。更に南が安房の国になっています。
備前」「備中」「備後」や「上野」「下野しもつけ」の様に、京都から巡る順に、「前」とか「上」が付くので、なんか、房総半島だけ不自然な感じがしますね。
まあ、交通の便が良くなった、現代人が京都から巡るとしたら、武蔵→下総→上総→安房と考えがちなんですが、大昔は、順路として、三浦半島から舟で安房に渡って、そこから房総半島を北上するのが東北に向かう順路でした。だから、南の方が「上総」と呼ばれるようになったんですね。
似たような形で、北九州の「豊前」と「豊後」。豊後の方が京都に近いのですが、豊前を通って豊後に入るので、距離的には遠いにも関わらず、豊前となりました。
元寇
今回の大河では、出て来ないと思いますが、頼朝が伊豆で挙兵してから約百年後。鎌倉幕府は「元」の国と戦うことになります。
「元」とは、モンゴル帝国の事ですが、元寇の頃は、五代目ハーンのクビライが君臨しておりました。
「元」は日本に対し、通交を求めますが、「拒めば征討す」とします。
この時の日本の政権は、まだ外交に不慣れな武士団。クビライからの「奉書」(立場が上の者から下の者に宛てた手紙)を無視したり、遂には使者の首をはねたりしています。
これに激怒したクビライは大挙、日本に兵を差し向けます。
武士の外交不慣れが逆に日本を救う「文永の役」「弘安の役
元寇…蒙古襲来に関しては、「ただ運が良かっただけ」という向きもありますが、「運も実力のウチ」日本の武士団はよく戦ったと思います。
「元軍は本気ではなかった」なんて言う人も居ますが、戦争で「本気ではなかった」は、通用しません。「南宋からの援軍が間に合っていれば…」なんて言う人も居ますが、間に合ってないんだから。援軍が来るまでに叩いて、元軍を「壱岐」まで撤退させた武士団の勝利です。
「本気ではなかった証拠に、占領地に野営せず船に戻って居た」という解釈も聞きますが、「戦争は平原でやるもの」という、元・高麗軍からすれば、博多界隈は峻険な山が近く、伏兵の危険のある「死地」にあたる。と判断しての事だったようです。
いずれにせよ、「戦」とは、ヘビー級とフライ級が、リングの上で相まみえるようなものではありません。ストリートファイトの様なもので、相手が「まだ襲ってこないだろう」と油断させたり、正面から来ると思わせて、背後から攻撃する等、考えうる作戦、出来る作戦を駆使すものです。
もし、平安時代だったら
歴史に「if」はありませんが、蒙古襲来が貴族中心の平安時代だったら、大陸との外交に慣れていた分、公家さん達は、一体どんな対応をしたのでしょう。ちょっと興味のあるところです。
日本は、「元」の属国になっていたかも知れません。土地に執着する武士だったからこそ、一所懸命「元」と戦えたのかも知れませんね。
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