本多忠勝、高野聖 #大河ドラマ #家康 #徳川家康 #戦国時代 #本多 #高野聖

本多忠勝 高野聖


「どうする家康」
とりあえず見ています
大河ドラマ「どうする家康」。受信料を取られているという事もあって、とりあえず見ています。私のようなオッサン世代からすると、信長、秀吉、家康、信玄、等は、焼き直しが多すぎて少しウンザリです。
まあ、若い世代の方が観る分には、新鮮かも知れませんが、それでも、無理に新しい切り口を見つけるより、昔の「大河」をリメイクした方が、よっぽど面白い作品が出来るように思います。ま、個人の意見ですけど。
三河衆の武士がリアル
時代考証歴史学者小和田哲男(現・静岡大学名誉教授)さんがやって居られるので、当然といえば当然ですが、桶狭間前後の三河衆のいで立ちは、実にリアルですね。
ボロボロの甲冑に、蓑や藁を巻いて、まるで「野武士」か「野伏せり」みたい。
強国・今川氏の属国で、税を搾られていた居たこともありますが、「松平郷」と言われる土地だっただけに、松しか生えない、やせた土地という事もあって、本当に貧乏だったようです。
家康より四、五代前に、松平に流れ着いた「高野聖」が、松平氏(当時はまだ松平とは名乗ってなかったかも知れません)の養子になって、近隣の豊かな土地を侵略したのが松平(徳川)の始まりと言えば始まりだったようです。
本多忠勝
桶狭間・大高城の兵糧入れ」が初陣でした。
いつも軽装備出陣。兜だけ被って、衣服は平装で出陣という事も多かったようです。
勇猛で武力・戦術の才があり、天性の戦上手だったのでしょう。軽装で出掛けても、傷一つ追わなかったと言います。
同僚の井伊直正などは、勇猛でしたが、合戦では甲冑の下に鎖帷子を着こむなどの重装備をしながら、いつも怪我をしていたようです。井伊直正は「関ケ原」でも足に大怪我をし、その怪我が元で二年後に亡くなっています。
本多忠勝は「家康に過ぎたるもの」と言われる程の猛将でした。
余談「高野聖
本来は、教義を広めるため、高野山から諸国に使わされる旅の僧の事ですが、室町・戦国の頃になると「高野聖」を名乗る、僧形の無頼漢、浮浪者も多くなりました。彼らは「夜道怪」「宿借」と呼ばれ、宿を貸して女房を寝取られる、とか、強盗に早変わりしてしまうなどの問題が多発していたようです。
同時に、交通事情の悪い昔、旅の僧は、諸国の情報提供者でもありましたので、重宝される一面もあり、夜伽よとぎとして娘をあてがって、外の血を入れるという事も行われていたようです。
家康の先祖も、そうした「高野聖」の一人だったようです。
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