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どうする家康「今川氏真」「武田信玄


第12回で「駿府」が落ちました
もし、武田信玄が、ドラマ中で見せた、非戦闘員の女子供まで手に掛ける。というジェノサイド皆殺しを慣行しておりましたが、もし、実際に信玄入道があんな事をしていたら、その後の駿河経営は苦労するでしょう。
同時期の西国大名・毛利元就は、自軍の兵に対して「進攻先では、その土地の人々(非戦闘員)に対しては、乱暴、略奪を働いてはならない。働いた者を見つけた場合、それが、他家の配下の者であっても処断する事」としていました。
攻め落とせても、土地の者から反感を買っては、治められない事を苦労人の元就は熟知していたようです。

今川氏真
既に、過去の史実なので、書きますが、今川氏滅亡後、諸国を流れ京にたどり着きます。
京でくすぶっていた氏真ですが、やがて、日本の中央を制した織田信長に召しだされ、相国寺で、得意だった蹴鞠の披露を命じられます。
その後、天下人となった豊臣秀吉が、京の都の片隅で落魄した暮らしをしている氏真を知り「あれでは余りにもお気の毒」と、年四百石と屋敷を与えています。
さらに後、豊臣家が徳川家に滅ぼされた後は、家康の庇護下に入り徳川家家臣として、品川に住み、名を「品川」と改め、子孫は江戸時代を生き残ることになります。

駿府」とは
「府」とは中世の荘園制度の中で「蔵」や行政機関を受け持つ「屋敷」等が立ち並ぶ町、言わばその国の「首都」を指しました。
駿府は「駿河の国の府」という意味で、駿河の首都になります。
甲斐山梨の「甲府」も、武田信玄の父「信虎」が、「甲斐の国の府」=「甲府」とした説がありますが、戦国の当時は、単に「府」もしくは「府中」と記されています。子の「勝頼」が、「長篠の合戦」に破れて後に、「躑躅ヶ崎館」を捨て「韮崎」に新たに「府」を移し「新府城」とし、ここから、韮崎を「新府」先祖代々の旧府を「古い府」=「古府」と呼ぶようになったという説もあり。豊臣期に入植した浅野氏によって「甲府」と言われるようになった説もあります。
私の故郷、広島にも広島市内の「府中」と福山市北の「府中市」がありますが、どちらも、「安芸」や「備後」の首都を意味しています。
他「別府」や「北別府」等は、文字通り「別に設けられた府」「本来の府の北に設けられた別の府」という様な意味になります。
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