【良い子の理科と歴史】「水銀」と「大仏」

水銀繋がりの話
奈良の大仏は金ピカだった
奈良東大寺の盧遮那(毘盧遮那)仏に施された金メッキ。
今でこそ、青銅剥き出しの赤銅色をしていますが、かつては黄金色に輝いていました。
「金色」と聞くと、なんとも成金趣味で、当時の日本国の見栄の様に感じてしまうかも知れません。
しかし、仏像は金メッキにする必要がありました。
「金箔」ではなく「金メッキ」
仏陀(覚者)、特にゴーダマ・ブッダ(お釈迦様)は、思想的に永遠でなくてはなりません。
大昔から、永遠に朽ちない、錆びないモノのひとつとして「金」は知られていました。(厳密には何万年という規模で僅かに錆びる)
その金を、仏像の表面に塗る…メッキする事で、仏像を永遠に残そうと考えた訳です。
ならば、金無垢の仏像を作れば良さそうな物ですが、掌に収まるサイズならいざ知らず、奈良の大仏様規模だと、それだけの金は集められませんし、集められたとしても、強度的に金は柔らかすぎて、廬舎那仏の掲げられている右腕が曲がってしまいます。
現に、青銅で造っても、永年掲げられた腕が曲がって来て、何回か修復していますね。
「箔」だと、どんなに上手に貼り付けても、本体との間に微妙な隙間は出来ますし、上から漆を塗ったとしても、漆そのものが劣化してしまいます。
修復するにしても、かなり大変な作業になったでしょう。
メッキもそのうち剥がれてくるものではありますが「箔」と違って修復は遥かに簡単でした。


古代人は如何にして金メッキを施したのか
水銀に金を溶かし込む方法がとられました。
金が水銀に溶ける事は、奈良の昔でも知られていて、当時の金メッキ法として、広く用いられています。
金の塊では溶けにくいので、先ず「金」を打ち延ばして「箔」を作ります。
溶けやすくなった、金箔1に対して水銀5という合金(アマルガム)を作り、仏像の表面に塗って行きました。
そのまま放っておけば、水銀の方だけ蒸発してしまうので、残った金だけが仏像の表面に残る訳です。
常温でも、やがては蒸発してしまう水銀ですが、藁等を燃やし、炎で炙りながら水銀を蒸発させたという記録が残っています。
しかし、揮発した水銀の毒ガスで、幻覚を見るなど、精神に異常を来す者も多く現れ、その対策として「ガスマスク」も作られたそうです。
こうして建立された、東大寺の廬舎那仏像ですが、現在の日本人は「赤銅色も渋い」として金メッキは台座の一部にその名残が観られるだけで、メッキそのものの修復はなされていません。
因みに、廬舎那大仏に使われた金の重量は440キロもありました。
ゴールドバー1kgが113 mm×52mm×10mmと言いますから、体積的にもなかなかの量ですね。
「永遠」繋がりで
日本人は金属、特に「鉄」は「錆びて無くなってしまう物」と考えていました。
世界最古の木造建築物、奈良の法隆寺。
釘が一切使われていない…と、私などは、子供の頃に教わったクチですが、正確には「法隆寺・五重塔」だけが、釘を使わずに建てられています。
五重塔は「仏塔」とも言って、ありがたい経文の他、仏陀の遺骨を納めたお墓でもありましたから、「永遠」の為には、やがて錆びて無くなってしまう釘は使われませんでした。
鉄は錆びるという思想から、日本では木と木を組み合わせた建築法が発達して行く事になります。
昭和九年から昭和六十年まで続いた「法隆寺の大改修」で取り外された千数百本の釘は、皮肉な事に「錆びない鉄」クロムメッキされた釘が使われていました。
クロムメッキとは何か?
速い話「黒錆び」の事です。しかし、ただ熱して急冷するだけの黒錆びだと、直ぐに赤さびが浮いてしまいます。
そこで古代日本人は、某か植物等を混ぜ込む等して、全く錆びないクロムメッキを発明してしまいました。
改修作業では、新たに釘を打ち直そうと計画していましたが、法隆寺建立当時の釘がそのまま使えるほど全く錆びていませんでした。
「錆びない理由は解って居るが、その製法は解らない」
現代の技術で以っても再現できない。いわば、日本の「オーパーツ」ですが、驚くべき事は、法隆寺も釘が錆び落ちる事を考えて、釘無しでも建っていられる程しっかりした組木工法で建てられていた事です。

余談ですが、我々日本人の祖先は、「能」の「敦盛」にもあるように、永遠はあり得ないと考えながらも、「手入れ」をする事で、法隆寺の他にも、鎌倉時代の刀剣等を現代に残しています。
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