マルコポーロの嘘 #マルコポーロ #東方見聞録 

マルコポーロの嘘

マルコポーロ

【①マルコポーロは本当に中国に来たのか?】
ドラマ冒頭に紹介されたマルコポーロ。「東方見聞録」で有名ですが、二十数年前から、その内容は疑問視さています。
まず、東方見聞録に書かれた道筋では、中国に行けず、迷った挙句にアフリカに出たであろう。という事。そして、現・中国からモンゴル高原に何度も行き来したはずなのに、「万里の長城」の記述がない。東方見聞録内で「大ハーンに初めて謁見したヨーロッパ人」(1274年頃)と自称しているが、既に、1240年頃にローマ教皇の命により、フランスのリヨンから派遣されたプラノ・カルピニ修道士(大ハーン、グユクとの謁見1246年)が居ました。
マルコポーロは、フビライ・ハーンの側近として17年もの間、仕えたにも関わらず、「元」の側に、その記録が一切無い上に、ヨーロッパ側、教皇側にも、マルコポーロらを遣わした記録がない。
プラノ・カルピニに関しては、ヨーロッパにも派遣に関する、正式の記録があり。「元」側にも記録があるほか、三代・皇帝グユク・ハーンからの書簡を持ちかえっている。
カルピニの記述には「万里の長城」も出てくるし、モンゴル高原の馬の数の多さにも言及。真夏に氷菓子を馳走になった記述まであります。当時のトルコのシャーベットではなく、牛乳を使った、現在のアイスクリームにほぼ近いものであったそうです。
氷室に蓄えた氷に塩を振り、氷点下にした氷の中に、青銅の筒を入れ、その筒の中で、乳を攪拌して作られた。その製法にまで、言及しています。
マルコポーロは、東方見聞録の中で、「着の身着のまま帰国した」としているのに、ジェノヴァの牢獄では、話の矛盾を追及され、預けてある膨大な記録があれば証明できると主張しています。(「東方見聞録」の中で、「諸々は旅の途中で盗賊に取られ、衣服に縫い込んで隠していた、僅かな宝石のみだけが残った」としているので、膨大な資料を持ち帰ったのは矛盾していると見られている)
マルコポーロヴェネツィア人ですが、恐らく、実際に行ったのはトルコ辺りまでではないか? と見られています。当時、トルコは東西交流の要所であった事から、ジェノヴァヴェネツィアなど、ヨーロッパ商人の出張所が沢山ありました。マルコポーロもそうした一人ではなかったのか? と見られています。トルコ出張所で、東方(中国)から帰って来る、トルコ人、アラビア人ら商人から、話を聞き、夢想を膨らましていたのではないでしょうか? そして、書かれた「東方見聞録」が余りにも面白いために、一人歩きというか、大物になってしまい、世界史に君臨してしまったのかも知れません。そんな感じがあります。
【追記】
マルコポーロは、東方から帰って来るトルコ商人達から「万里の長城」の話を聞いたのかも知れません。しかし、それが、「600万歩幅」と聞いて「それはさすがに嘘だ」と思って、「東方見聞録」には載せなかったのかも知れません。「だって、6000000歩幅だよ。ありうる?」そんな感じだったかもしれませんね。
【因みに】
言い伝えで、600万歩もあるとされた「万里の長城」ですが、実際6,259.6kmあるとされています。歩幅を1メートルとして考えると、まあ、まあ、当たらずとも…な所です。

偽書」の疑いの強い「東方見聞録」だが、世界に君臨している。未だそこそこの値段で売られている

マルコポーロは本当に中国に行ったのか」
信憑性の高い内容の本であるにも関わらず、時代と共に葬り去られようとしている
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