本能寺の変 #戦国 #家康 #秀吉 #家康 #光秀 #どうする家康

本能寺ら辺の事件


家康による信長の暗殺計画
「信長を討って、天下を取る」
本能寺の変」の黒幕として「家康説」も、確かにありますが、現実的にはさすがに、無理だったと思われます。
暗殺だけなら、ドラマにあったように、伊賀者を配置するなどして実行出来たかも知れませんが、その後、天下に号令する事は無理だったでしょう。
予め、織田内外の諸侯に根回しをしていれば別ですが、「駿・遠・三」の所領程度では根回しも無理だったと思われます。突発的に信長を暗殺した「明智光秀」がそうであったように、中央で孤立し秀吉の「中国大返し」がなくとも、四面楚歌に立ち往生したことでしょう。
ましてや、信長横死の段階で、岡崎に兵を整えていた気配のない家康に、信長暗殺の意思はなかったと思います。「信長に暗殺される」という心配なら、あったかもしれません。
主力兵を整えて本能寺を襲った光秀でさえ、十一日しか持たなかったのに、軽微な供だけで中央から檄を飛ばしても誰も応じて貰えない事くらい、後に天下人となる家康なら計算出来たと思います。
妻子を助けたかった家康
自害処刑が決定した後も、妻・築山殿と嫡男信康の身柄を領内で転々と移した事を見ても、家康は二人を助けたかった気分は伝わってきます。
家臣が気を利かせて逃がしてくれればよかったものの、愚直人の多い三河武士は言いつけ通りに厳重な警備を敷いていたとも伝わっています。
家康には、織田を捨て、武田と同盟、北条も交えて三国で信長に当たる選択肢もありました。
それは、織田信長にとって脅威だったでしょうし、加えて、遠く、毛利とも連携を結べば、もう一人の同盟者、四国の長曾我部元親も、早期に敵に回った可能性はあります。
ドラマでは優しい領主家康として描かれますが、そこは家康も戦国の武将。妻子を犠牲にしてでも、「ここは信長に着くが得策」と考えていた節はあります。
明智光秀
今回の大河ドラマでは、ちょっと嫌な人物に描かれていますね。
「ルイスフロイス日本史」の中でも、ルイスフロイスは「明智光秀は狡くて残忍、信長公に仲間の告げ口をする」等と評していますが、他者の記録では、領民に思いやりがあり、無暗に敵の命を奪うこともない、人物として分厚い存在として書かれていたりもします。
ルイスフロイスは、生理的に光秀の事が嫌いだったのかもしれません。
信長暗殺の動機として、鉄扇でシバかれた説はよく使われますが、私個人は、土佐・長曾我部元親との一方的な同盟破棄の見直し、その交渉決裂によるものと見ています。
伊賀越え
家康一行が「本能寺の変」を知ったのは「堺」遊覧の最中だと言われています。
すぐさま、伊賀越えを慣行。途中、土豪などの襲撃に会い、家康と別行動を取った穴山梅雪が死亡。家康自身も「自害する」と喚いたと言われています。
徳川家を記録した「三河物語」などでも、家康はちょいちょい「自害」したがります。三方ヶ原、伊賀越え、関ヶ原大坂夏の陣、等々…現実逃避と言いますか、記録上では結構すぐ死のうします。
織田家、木下家(羽柴)、徳川家
この三家、戦国期で最も優秀な人材を輩出したのは、木下家だったでしょう。秀吉を筆頭に、弟・秀長、従弟の福島正則、又従弟の加藤清正、等、行政、軍事に才覚のある者がいます。どれも、秀吉の母の血筋でした。
徳川家も信康や側室の子、結城秀康が優秀とされていますが、残念なことに秀吉の弟や従弟達ほどの実績は残せませんでした。
その意味では、織田家が最もダメだったでしょう。信長が突出して優秀だった他は、父の信秀が幾らか才覚があっただけで、息子や兄弟達は、凡庸もしくは愚鈍でした。
部下には厳しい信長でしたが、息子の失敗には寛容でもありました。多分にサイコパスな性格を持つ信長でしたが、実子には甘かったようです。
余談ですが
ドラマの中で、秀吉のみが尾張弁なのは、少し違和感を覚えます。
三河の連中も、なぜか、当時の標準語ともいえる、室町言葉で会話しているのも、変に感じますね。個人的希望ですが、どうせなら、みんなコテコテの三河弁で話してほしいです。
あと
信長と家康の会話の中で、信長が「足元を掬われる」と言いましたが、正しくは「足を掬う」だと思いました。
足元は見る、掬うのは足(脚)、民放ならともかくNHKではあってはならないミスですね。
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