「どうする家康」低視聴率 #NHK #大河ドラマ #どうする家康

「どうする家康」低視聴率

信長ではなく家康こそが悪魔だったのかもしれない

ネットニュースで40年ぶりの家康アップデート

なんて言ってますが、無理やりすぎて、
「ちょっと視聴者を馬鹿にしてないか」
なんか苦笑してしまいます。
「若い世代を洗脳しようとしてるのかな?」冗談ですが、そんな風にも思ったりします。
しかし、歴代大河ドラマとして、視聴率は下から二番である事を見れば、多くの視聴者は内容的に、かなり疑問を感じているのだろうと思われます。ちなみに、ワースト1は「いだてん」。この場合、テーマその物に興味を持つものが少なかったのでしょう。どうする家康?
因みに、低視聴率といっても、開始時15.4%から始まり、段々と下がって三月ころから10~11%前後(一時は7%、9%の時もあった)になったので、昨今の他ドラマ視聴率から見て、それほど低くも無いのかもしれません。
くれぐれも言っておきますが、俳優さんたちが悪いわけではありません。

不器用な奴が出来る技ではない

石川数正の出奔。
「不器用な数正なりの…云々」なんて、言ってましたけど、不器用な奴が、国家の最高機密を握ったまま出奔するか? ネットニュースでは視聴者が涙した。なんて言ってましたけど…まあ、何人かは居たかも知れませんが、「敢えて出奔」には無理が有ると思います。
「あなたは、本当に殿(家康)がお好きなのですね」
数正の妻は言いますが「好き」な人間のやる事とは思えません。まあ、好きだったかもしれませんが…実際は、家康の説得を試みたものの、余りに秀吉を持ち上げる発言をした為に「裏切り」を疑われ、身の危険を感じての出奔だったと思います。

朝日姫(旭姫)

ドラマでは「旭姫」の字が使われていました。
既に、夫が居たのに、無理に離縁させられ、家康のもとにやってきます。
「於愛の方」に、「離縁された夫は行方知れず」と言わせていますが、観ているものに、陰湿な想像をさせる、ちょっと汚ない手法に思えました。(考えすぎかも)
旭姫の夫が、行方不明になった説は、確かにあります。ですが、密殺や放逐されたわけではありません。秀吉は別れさせたお詫びに、扶持(禄)を与えています。
「まるで、妻を売って出世した様に見られるではないか」
夫は、面子が立たず憤慨し、自害したとも、剃髪して出奔したとも伝えられています。
往年の秀吉は、無理をさせた相手を慰労する精神は多分にあって、関白になる前に、将軍になろうとし、室町最後の将軍「足利義昭(義秋)」に養子縁組を申し入れるものの、断られます。(義昭は信長に追放されても書類上「将軍」のままで、秀吉が関白になった翌年に返上している)
たちまち利用価値の無くなった義昭に対して、秀吉は一万石を与え槇島城に住まわせています。
秀吉の妹というだけで、無理に陽気に振る舞っていた様に描かれましたが、旭姫は、1586年に家康に輿入れし、僅か四年後に死没しています。しかも、その間の記録は、殆ど残っていません。
なんとなくですが、この記録の無さ…に、三河衆からの扱いは、余り良いものでは無かった様に感じています。

胸襟を開く秀吉に、あくまでも心を開かない家康(三河衆)

通常、上の立場の者から下へ人質を送ることはありません。しかも、婚姻させた妹だけでなく実母まで差し出す。その常識外れが、信長や毛利の安国寺恵瓊が「大気者大物」と評した、秀吉たる所以ですし、家康も「兎に角、ここは受けた方が得策」とは考えていたでしょう。
秀吉は、実母、大政所まで差し出し、何の下心も敵意も無い事を示し、「九州征伐の相談もある。京へ来られよ」と、胸襟を開いたに過ぎませんでしたが、三河衆は家康を先頭に上目遣いに、警戒心を解こうとしなかった。という印象が、歴史記録を観る限り、どうしてもあります。
大政所が三河に到着し、いよいよ上洛する家康ですが、三河衆は大政所を宿舎に押し込め、薪・藁を積み上げて、いつでも火を掛けられる様にしてしまいました。
直接指揮したのは、三河三奉行の一人、本多重次でしたが、「三河物語」(大久保彦左衛門1560年生まれの家康の家臣・著)の中でも「万一の時は、すかさず殺すように」家康自らが細かく指示した事が書かれてあります。「女房の旭姫まで殺しては風聞が悪い、女房はやめておけ」とまで三河物語の家康は指示しています。
後に、この事実を知った秀吉は「三河者は鬼か」激怒していますが、報復はしていません。
秀吉は、大政所が無くなった時、余りの悲しさから気絶したほどに、母を愛していました。
そんな母まで差し出したにも関わらず、家康は猜疑心の塊で上洛を果たします。
こうした、三河者の底意地の悪さ、猜疑心、無礼で酷薄な行動の記録は、どうしても、家康の本性に暗く陰湿な物を感じてなりません。今回の大河は、それを払拭することが目的なのでしょうか?

秀吉は

家康が臣下となってから、事あるごとに「家康殿は律儀におわす」と、人前で褒めていたそうですが、家康の本性を見抜いて、教育していたのかも知れません。

秀吉、関白への道こぼれ話

足利義昭への養子を断られた秀吉に、お公家衆は「関白」になる事を勧めます。関白は将軍等よりも遥かに権限も強く、天皇陛下の次に偉い立場にあります。
しかし、秀吉の出自は下賤と言われるほどに低い。そこで、こんな話を作り出します。
秀吉の母、大政所(なか)がまだ早乙女であった頃、京に上って御所の下働きをしたことがあった。
やがて、天皇陛下の目に留まり、お手が着くことになります。仲は程なく懐妊。故郷尾張に戻って産んだのが秀吉であったという。
しかし、秀吉には「智」という姉(秀次の母)、がいて、仲が宮中に出仕していた頃「早乙女」であったのなら、処女で智を出産した事になります。
この話、秀吉の妄想ではなく、こういう伝説を作ることで「ならば関白に相応しい」という、身分を造り易くした政治工作でした。秀吉の出自など、天下万民の知る所ですが、公式的な伝承を必要としたわけです。そして、源平藤橘に続く、第五番目の姓「豊臣」を賜ります。

因みに、姉の「智」さんですが

1625年。92歳まで生きておられます。長男の秀次は叔父の秀吉に切腹を命じられますが、次男三男の秀勝、秀保までも母親よりも早く亡くなります。最後の孫娘「お菊」(秀次の娘)も、夫・山口兵内が大坂の陣で豊臣方に着いたことから、徳川方に処刑されています。
「豊臣の血は根絶やしにする」という、三河衆の気概が伺える気がします。(但し、九条家に嫁いだ豊臣完子さだこのみは、明正天皇の伯母に当たるため、生きながらえている。皇室内に豊臣(織田、徳川、浅井も)の血は受け継がれている事になる)
後の、「国家安康」騒動や、大坂冬の陣、家康の命で行われた、「豊国神社」と「豊国廟秀吉の墓」の破壊という暴挙。
「朝鮮の役」で国内に厭戦気分蔓延していても、案外、秀吉人気は強かったのかも知れませんが、こうした暗い行いばかりして「我らには心がある」「思いがある」と、涙ながらに言った所で…ま、監督に言わされているんですが、気持ち悪いだけです。何度も言いますが、演者には罪はありません。

どうせなら

「戦の無い世の中を作る」などと、白々しい事をグチクヂ言わせないで、端から
「天下を取りたいものよのう」
とぼやく元康(家康)に、家臣たちが、
「人質の身なれば、無理な話じゃ」
という、野心は満々あるものの、苦難が多かった。とした始まりの方が、面白かったのに…なんて思っております。
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