家康は信康を忘れられなかった #徳川信康 #家康 #本能寺 #関ヶ原

【家康は信康を忘れられなかった】

徳川家康の嫡男、信康は性格に難がありました。
激昂しやすく、家臣の進言、直言に腹を立てると、相手を押さえつけて「俺にモノ申したのはしたのはこの口か」といって、脇差を抜いて刺殺した。という話もあり、頭にくると見境なく成敗する所がありました(ちょっと信長に似ている)。この性格を当然ながら、家臣団は快く思っておらず、信康の妻で織田信長の娘・徳姫からの密告「信康、武田密通」を裏付けるように、徳川家臣達からも信康母子の悪しき情報が信長にもたらされていました。
家康は、信康のこの性格はいずれ治まると見ていて、武将としての能力を高く評価していました。
信長に讒言した家臣を、家康は罰する事はしません。罰すれば信長に「家康に叛意あり」と見られたでしょう。家康は、信康母子の切腹まで、二人の身柄を領内のあちこちに移動させています。家臣が気を利かせて、逃がす事を期待していたとも言われていますが、家臣達は気が利かなかった様で、母子は自害させられました。1579年の事です。
【秀忠ではない信康である】
それから21年経った関ヶ原の合戦で、苦戦した家康は「ここに、信康がおればのう」とぼやいたと言います。
「は? 秀忠様では?」
中山道を西上している秀忠と間違えているとおもった家臣に対し、
「なんの、秀忠ごときに、この場が務まるか、信康こそが出来る戦じゃ」
と言い、「それを家臣お前達が殺したのじゃ」と言ったそうです。それほどまでに愛した嫡男・信康でしたが、多分、本当に武田勝頼と通じていたと思われます。徳川家は信長にとって東の抑えでしたが、武田氏が滅んでしまうと必要なくなります。
そうでなくても、徳川家康の働きの割に、今川の旧領を与えられただけ(こういう所が「信長公はしわい」と言われた一因)でしたから、信康は徳川家を守るために内通していたと思われます。
【信長も信康を恐れていた説】
信康の武将としての才覚を信長も恐れていた。という話があります。織田信長の子らは、凡庸もしくは、それ以下で、信康が長ずれば、逆に、織田家が飲み込まれるかもしれない。という恐怖を、信長は感じていたかもしれません。
【凡庸以下の信長の子供たち】
本能寺の変後「賤ケ岳の合戦」で岐阜城にあった織田信孝は、踊りばっかり踊っていて、家臣に「そんなに踊ってばかりいて、どうなさるお積りですか(対秀吉策は)」と言われ「そうさな、京の公家を集めて、我が舞見せようか」と言ったといいます。このコントの様な話は、あっという間に、天下に知れ渡る事になります。これを最も笑ったのは秀吉で、秀吉は謀略をもって、信孝に家臣の軍団長らを誅殺させています。
小牧・長久手の戦い」で徳川家康と同盟した、織田信雄なども、家康に無断で秀吉と和睦したりして、家康を呆れさせる様な事をしています。他、信雄は、信長に無断で伊賀攻めをし、失敗もしています。こうした、ボンクラ後継者たちの為、信長は信康を排したかったのかも知れません。
織田家
織田家で有能だったのは、信長とその父・信秀位だったでしょう。その中でも、信長は突出して有能でした。

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