私の秀吉観 「どうする家康」
「どうする家康」を観ていると、もはや「歴史歪曲ドラマ」にしか見えません。
豊臣秀吉
昨今の、大河ドラマでは、隣国への政治的配慮でも働いているのか、酷く扱われる事が多いですね。
「公正」を謳っている放送局でありながら、教養バラエティ番組の中でも「正確な検地による税収計算の歴史」を「太閤検地」を飛ばして、織田信長と徳川家康で語っていたりします。
なんか、秀吉が可哀そうでなりません。
かといって、私は、太閤さんファンと言う程でもありませんけど、秀吉に関しては、一定の評価はしています。
まがりなりにも天下を統一し、物流経済を盛んにしました。
全国の物資を大坂表に廻船で集め、値を付けて、また全国に運ばれてゆくシステムは、徳川時代になっても踏襲されます。
不殺
「どうする家康」の中では、お市さんは、秀吉に対し「欲望のまま殺しまくっている」と言っておりましたが、往年の秀吉は「不殺」で有名でした。
意識して殺したのは織田会社の専務的立場にあった、柴田勝家のみでした。賤ケ岳で捕まえた、勝家の甥、佐久間盛政に対しても、家臣になるよう何度も説得します。しかし、盛政は断固拒否、自害しています。
厳冬の日本アルプス越えをしてまで、家康と連合しようとした、北陸の佐々成正は、徹底的に秀吉を嫌いましたが、それでも秀吉は殺すことは無く、何度もチャンスを与えています。
秀吉より家康のガメツさ
我が先祖の主君、毛利氏は世界最大級の銀山「石見」を所有していました。秀吉は欲しがったものの、毛利輝元の言い分を聞き入れて諦めています。
秀吉は「金山」「銀山」は欲しがりはしましたが、余り強制的な接収はしていません。しかし、関ヶ原以降の家康は、色々と難癖をつけては日本全国の「金山」「銀山」を天領としてしまいます。
物流でお金を集めようとする秀吉と、米穀を経済の中心に戻した家康の、性格の違いだったのでしょう。
いじめられの半生
ドラマの中ではイヤラしい人柄で描かれている秀吉ですが、織田家譜代の家臣達からはいじめられていたようです。小男で華奢だった秀吉は、所謂、武辺な男ではありません。戦国中期、「槍働きこそ武士の誉」と言う意識の強い時代に、知恵で戦う秀吉は、馬鹿にされていたようです。
出自も「卑しい」とされる身分でしたから、譜代の家臣達は馬鹿にし、見下げていたようです。
前田利家の様な理解者も在りましたが、酷いいじめに会っていた秀吉は、沈むよりも、朗らかで陽気に振る舞う事で、それらを撥ね退けていた様に思います。
織田信長。という、武辺よりも才覚を重用する上司だったからこそ、秀吉は出世出来ました。
信長没後、急速に台頭する秀吉。さんざん馬鹿にしてきた諸先輩達は、激しい嫉妬から嫌悪したと思います。
余談ですが、信長へ、新年の挨拶の際に、長浜から十数キロもの行列を作って、貢物を運んだという記録がありますが、これは、秀吉・寧々夫妻の企画でした。
信長は「さりとても筑州は大気者よ」とはしゃいだそうですが、譜代の先輩家臣達は、この夫婦の企画はわざとらしく見え、苦々しく思っていたようです。
石川数正
対秀吉の外交担当官でした。秀吉は、人前で石川数正を徹底的に褒めちぎり、下にも置かぬ扱いをいたします。秀吉の度量を認めてしまった数正は、三河に戻って秀吉を褒める話をしますが、排他的な三河者たちからは「裏切者」と見られてしまいます。
数正が三河衆を説得すれば良し、疑われても、家康から筆頭家老を引き剥がせるので、どちらにせよ秀吉の調略は成功します。
数正は出奔して秀吉側に寝返ってしまいますが、あんな暗い雰囲気で、逃げた訳ではなかったのではないか? と思います。むしろ「解ってくれる人の元へ行こう」という気分だったように想像しています。
戦の無い世の中を作りたいのなら、まず、自分が戦を止めるべき
戦の無い世の中を作るために、甲斐、信濃、等、近隣諸国攻め取っているのなら、天下布武を謳って、諸国を攻め取っていた織田信長となんら変わらないではないか。と思います。
春秋戦国期の思想家「墨子」のように「非攻」を貫くべきでしょう。
「墨子教団」は請われれば、攻められる国を助けに行きましたが、「籠城・専守防衛」主義でした。しかし、専守防衛では何時かは潰されます。耐えながら、味方になってくれそうな国に密使を遣い、援軍を頼む形で「非攻」を貫いていましたから、なかなか大変だったでしょう。
ドラマの中でしつこく言われる「戦の無い世の中を作る」は、段々白々しく聞こえて来てなりません。