幕末の日本を憂いた砲術家「高島秋帆」 #高島秋帆 #幕末 #鳥居耀蔵 #砲術 #高島平

幕末の日本を憂いた砲術家高島秋帆


高島秋帆
寛政10年(1798年)生まれ。長崎出身。押尾川部屋…ではなくて、江戸時代の砲術家。出島のオランダ人から、オランダ語と洋式砲術を学ぶ。日本の砲術(大坂の陣から変化なし)と西洋の砲術の格差を知って驚き、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させる。
【高島平】
アヘン戦争により「清」がイギリスに大敗したことを知った秋帆は、幕府に火砲の近代化を訴え、意見書「天保上書」を提出。天保12年5月9日(1841年6月27日)には、武蔵国徳丸ヶ原にて、日本初の洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった(自衛隊の富士演習の公開と似ている)。この時の、砲兵、銃兵の服は、筒袖の上着に、忍者等の履く裁着袴たっつけばかま、ヘルメットに黒漆塗の円錐形をした、鉄製の銃陣笠(革を漆で塗り固めた物もあった)を被っていました。公開演習を行った、武蔵国徳丸ヶ原とは、現在の板橋区高島平で、「高島平」の由来は言うまでもなく、高島秋帆の名前から来ている。

忍者の履いているのが「裁着袴」

【保守派・幕末の妖怪こと鳥居耀蔵の謀略】
高島秋帆ら、革新派、蘭学者を快く思わない、保守派、鳥居耀蔵の謀略により、「高島秋帆に謀反の心アリ」として、投獄されてしまいます。ドラマの中で、籠に押し込められ牢獄に護送されるシーンがありましたが、それです。
鳥居耀蔵は、高島秋帆が、江戸市中から離れた場所に、火薬庫を作った事を「武器・火薬の秘匿」と理由づけ、無理やり謀反に仕立て上げます。これに対し秋帆は「民家の側に火薬庫を作る馬鹿が居るか」と反論。耀蔵は反論出来ませんでしたが、それでも強引に有罪にします。
【幽閉十一年】
天保13年(1842年)に逮捕され、渋沢栄一の住む、武蔵・岡部藩に幽閉される秋帆ですが、嘉永6年(1853年)、ペリー来航により、世情は秋帆の予見通りになり、晴れて赦免されます。
ドラマで、騎乗の人となり、渋沢栄一と再会したシーンがこの時期に当たります。
出獄後には、開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を幕府に提出。幕府の砲術訓練の指導に尽力した他。元治元年(1864年)には教練書『歩操新式』等の編纂にも従事(著者名は本間弘武)。慶応2年(1866年)、69歳で亡くなりました。
蛮社の獄ばんしゃのごく天保10年(1839年
幕末の妖怪・鳥居耀蔵の主導のもと、蘭学者らに対して行なわれた言論弾圧

高野長英渡辺崋山ら「尚歯会しょうしかい」面々が、モリソン号事件や幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて投獄、或いは処刑される。高野長英の場合は、弘化の火災を利用して脱獄。全国を流浪逃亡し、宇和島伊達藩に匿われていた時期もあったが、新宿百人町に舞い戻り、沢三伯さわさんぱくと名乗って、開業医を始める。顔を知られている高野長英は、硫酸で自身の顔半分を焼いたとも言われています。しかし、その後、捕り方に踏み込まれ、十手等金棒で殴打されその場で死亡。
高島秋帆に対しても「天保上書」の内容が、「家康公以来の砲術を批判した。すなわち、幕府に対する叛意である」として弾圧する。
モリソン号事件(英: Morrison Incident)天保8年(1837年)に、七人の日本人漂流民を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件。
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