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「卍」も漢字である

葛飾北斎

ある教養(?)バラエティ番組の中で、葛飾北斎が取り上げられておりました。
葛飾北斎は生涯で雅号を何度も変えた人で、晩年の雅号が「画狂老人卍」というものでした。
「名前の中に記号を入れるなんてぶっ飛んでいる」
つんく♂」さんや「ダイヤモンド☆ユカイ」さん(正しくはユダヤの☆印)の先をやっていた。…なんて言っておりましたが、「卍」まんじは立派な漢字です。
まあ、確かに、地図帳ではお寺のマークだったりしますから、現代人からすると、漢字というより記号に見えるでしょう。(広義的には文字も記号になりますけど)
他、凹凸も立派な漢字ですが、へこみ、でっぱりの記号という印象ですね。
「絵画バカ一代」な北斎さんは、お金には無頓着な人だったようで、収入の全てを絵画に注ぎ込むような人でした。
お弟子さんたち…というかスポンサーさんも沢山居たようでした。その殆どはお金持ちの商人達で、絵画に使いすぎてお金に困ると自分の雅号をお弟子さんたち売っていたのは確かなようです。
さて「卍」ですが、「おめでたい趣向」という意味がありまして、どうやら「絵に狂った老人のおめでたい趣向」という意味の雅号だったようです。
ちなみに、「画狂老人卍」は最後の雅号ではなく、数え九十歳で亡くなった年には「九十老人卍」を名乗っていました。
他にも、「前北斎卍」「葛飾卍老人」を名乗っていた時期もありましたが、これから考えると、北斎さんは「卍」を記号として捉えていたのかもしれません。しかし「前の北斎おめでたい趣向」「葛飾おめでたい趣向老人」と読めるので、やはり、北斎はちゃんと漢字のひとつとして使っていたのではないでしょうか。
北斎さんは、数えの九十歳で亡くなるとき「あと、十年生きられれば絵を極められたのに」と言ったほどに絵画にのめりこんでいた人で、自分の住んでいた家が火事になった時も、逃げるより、ロバート・キャパみたいに、それを写生していたような人でした。

葛飾」とは

丘陵砂州を含む大地というような意味で、現・東京の墨田区江東区江戸川区から葛飾区の東部、千葉県の市川~柏~流山~松戸~船橋市、埼玉県栗橋町(久喜市)、茨城県古河~総和市まで、かなり広大な範囲を葛飾と言っていました。全体で葛飾だったのか、飛び飛びに丘陵・砂州の土地を葛飾と呼んだのかはっきりしませんが、墨田区から千葉県西部まで連なる葛飾だけでも、かなり広大ですね。
ですから、現・墨田区内を転々としていた北斎は、「葛飾北斎」として葛飾北斎と名乗ったようです。
しかし、「葛飾区」「葛飾郡」等を除いて、地名としての葛飾を名乗った土地は少なく、「男はつらいよ」の寅さんの出身地で有名な葛飾区内にも葛飾という地名はありません。江戸川を下った先、現・西船橋駅周辺だけ(多分)が、古くから地名として葛飾を名乗り、行徳街道から成田、木下街道に向かう最初の宿場町として「葛飾の宿」と呼ばれていました。西船橋周辺は、いまでも葛飾の町名がありますし、葛飾小中学校もあります。(一部、西船町に変えられた地域もある)
この辺りの事は、随分前に記事にいたしましたね。
因みに、これも以前書きましたが、隅田川を境に東は既に「下総の国」になり、「武蔵」と「下総」両国を渡す橋として「両国橋」=「両国」の地名になりました。
東京スカイツリーの建っている場所も下総になり、「むさし」に因んで「634メートル」は、本当はちょっとおかしいんですね。

「風に揺れる芥子の花」(芥子も戦国時代に西洋からもたらされた)
北斎の絵には、動の瞬間を捉えた物が多い。

こうした絵から、葛飾北斎とレオナルド・ダ・ビンチは「瞬間記憶能力」カメラアイの持ち主だったと言われている。

北斎画は構図的に迫力がある事で、世界的評価が高く「この1000年で世界に影響を与えた100人」の一人に選出された。


北斎作品は、日常を切り抜いたスナップ写真の様な景色が多く、それが北斎画の魅力であると私は思います。この様な「樽」「桶」は戦国末期、南蛮人の持ち込んだ樽に影響されて、日本でも作られるようになりました。
それまでの「曲げわっば」や「瓶」と違って、大量の液体を貯蔵出来るために、戦国末期、大坂の伊丹で清酒の大量生産が開始されています。
樽の周りに鉢巻の様に巻いた、竹で編んだ帯の様な輪を「たが」と言い、これを外すと、桶や樽がバラバラになることから、冷静さを失った状態を「タガが外れる」と言うようになりました。
なんと、センスとウィットに富んだ表現なんでしょう。
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