毛利元就と織田信長 #毛利元就 #織田信長 #戦国

【ザックリ戦国】毛利元就織田信長

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織田信長が本能寺に倒れたのは満48歳、数えで49歳の時でした。
後二十日ほどで数えの50歳、
「人間五十年」
奇しくも、信長が好きだった「敦盛」の一節の通りの人生を送ります。
本能寺で明智光秀に攻められた時「是非も無ししかたない」と言ったらしいので、武士としての覚悟は早かったのでしょう。
しかし、ほぼ天下を手中にした状態で、口惜しい気持ちもあったかもしれません。
毛利元就の飛躍】
毛利元就が、安芸国内勢力を伸ばし始めたのは、隠居した49歳の頃からで、小早川家に三男隆景、吉川家に次男元春を養子に送り込んでからの事でした。
勢力が伸びたとはいえ、当時の毛利本領は三千貫、大体一万石程だったと言います。
万石から大名とはいえ、豪族とさほどの違いはありません。
厳島陶晴賢を破ったのは、1555年。満で58歳の時で、ここから本当の飛躍が始まります。(5年後の1560年に信長の桶狭間があります)
安芸、備後二国を掌握し、瞬く間に周防、長門を攻め取ります。
その後、石見、出雲の尼子氏を滅ぼし、山陽山陰11か国に勢力を伸ばし、約200万石の大大名にまでに成ります。信長台頭まで、日本最大の大名でもありました。
49歳で生涯を終えた織田信長と49歳から勢力を伸ばした毛利元就
世代は違いますが、ほぼ同時期に飛躍した二人に、なんか不思議な因縁を感じます。
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元就の石高200万石は、正確な検地がなされてない時代ですので、色々異説はあります。
しかし、石見の銀山、貿易港の赤間関あかまがせき(現在の下関))、厳島等を抑えていたので、実際の石高より、兵の動員力は高かったのは事実の様です。
孫の輝元の代、関ヶ原の直前、毛利の本領は125万石程でしたが、九州の分家・小早川、伊予の安国寺恵瓊(毛利の外交僧)らの勢力に加え、銀山と貿易による経済力で、250万石の徳川家康に匹敵する兵を動員しています。
戦国時代、西国大名の石高は、東国大名の石高の二倍に当たる。と見られていました。
東国は米が育ちにくかった事や、当時、貿易の玄関口が西日本であったことが、格差の原因であったようです。

毛利元就と地域社会
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