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【良い子の歴史】それでも、安土城下は栄えていた

築山殿が、お互いが助け合う貿易で、戦のない世の中を画策。武田、北条も乗り気になったものの、武田勝頼に裏切られて、母子自害という運びになりました。
ドラマ的には、なんか、昨今のSDGsを意識しているみたいで、多少、あざとい観は残ります。
実際
助け合う「貿易」の仕組みは、後の豊臣秀吉が大坂表において、全国の物資を集め、そこで値を付けてまた全国に運ばれてゆく、というシステムを作り出します。
例えば、南北海道松前」の蛎崎かきざき氏(15世紀半ばに福井若狭・武田氏が流れ流れて、養子に入ったため家紋は「丸の中に武田菱」)は昆布等、北海の海産物を大坂に運んで売り、当時の北海道では取れなかった米を仕入れて帰る等をしていました。各地各国の名産を大坂に輸出し、その売ったお金で、欲しいものを買うという仕組みです。江戸時代になって、徳川氏もこのシステムを踏襲し、豊臣時代のまま、大坂を天下の物流の拠点としました。
因みに
江戸時代。「藩」の規模は、米の取れ高「石高」で著わされていました。
「万石」から「大名」と呼ばれましたが、松前藩は米が取れないので大名ですらない事になります。
しかし、幕府からは、大坂貿易で万石以上の実力と観られ、形上「四万石」として大名の体裁を採っていました。実態は、四万石処か二十五万石~四十万石の実力はあったようです。

東国と違って、安土の城下は栄えていた
織田家」という新興勢力は、家臣従業員がボロボロになるまでこき使われ、使えなくなったら棄てられる。企業でいえば所謂「ブラック」ではありましたが、庶民消費者にとっては大変良い社会でした。
偏りは強いものの「正義」に厳格だった信長は、処罰も厳しかった為に、安土城下のみならず、信長支配地の治安は良く、地侍、豪族の関所も撤廃され、物流もスムーズで無用な運上税金も必要なかった為に「人」と「物」が集まっていました。
悪女として後世に語られる
築山殿はその実態も知られないまま「後世、悪女として語られる」とドラマ中の家康は言いました。その通りでしょう。
後に、「大坂の陣」で母子で自害する「淀殿」も、戦勝者の徳川氏に「愚かな女」と語られ、当時は「娼婦」という意味で使われた「きみ」が使われ、「淀君」(ニュアンス的には「娼婦の淀」)と揶揄されました。
しかし、戦国ドラマは
京都から東ばかり取り上げられますね。唯一の例外が「毛利元就」ですが、後は、全部東国大名です。ひとつには、天下人になった、信長、秀吉、家康と大きく関わった勢力達という理由もあると思いますけど、もっと、西国大名を取り上げれば、戦国時代も、違った印象になると思います。
例えば、日本の都市国家(軍事・行政力を持った独立した都市)といえば、泉州の「堺」が有名ですが、西にも、「博多」がありましたし、他、国際貿易港は「平戸」や「長崎」「赤間ヶ関(下関)」など、西国エリアには沢山ありました。
戦国最強と言われた武田軍にしても
東国だけを観れば、武田は、最強だったかも知れません。しかし、全国で観た場合、本当の戦国最強軍は「薩摩」の「島津」ではないか、とも言われています。
ただ、島津が台頭するのは、天下が信長から秀吉に移り始めた頃。と、割に遅い事が残念ですね。しかし、「朝鮮の役・泗川の戦い」では、完全包囲する明・朝の大軍に圧勝しています。
往々にして、西国の兵は強いと言われていました。
【余談】泗川の戦い
兵数に関しては諸説あって、明・朝鮮連合軍、二十万に対し島津軍一万三千であったり、十万対七千だったしますが、島津は圧倒的不利な状況から、逆に敵の首三万余を討ち圧勝いたしました。
少し、信じられないような話ですが「明」の側にも、この戦いの記録があり「石曼子シーマン(島津)」の強さも記録されています。その強さから「丸にくつわ」の島津の家紋と、勇猛で知られた「加藤清正」の肖像(想像)は、朝鮮で「魔除け」として描かれていました。日本で「鍾馗」様を魔除けに描いていたのと似ています。韓国では、これらの行いを1998年頃に法的に禁止しています。
小説家さんを含めて、もっと、西国大名を取り上げて欲しいものですね。

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