武田信玄と武田勝頼 #勝頼 #大河ドラマ #家康 #元就 #信玄 #関ケ原 #孫子 #どうする家康

武田信玄武田勝頼


信長は勝頼をどう見ていたのか
大河ドラマで、信長は「武田勝頼の器量、信玄を上回る」と評していました。
長篠・設楽原の前年、1574年。武田勝頼は、父・信玄も落とせなかった、東海道の要衝。「高天神城」を落とした事で、その名を全国に知らしめました。
ですが、勝頼は信玄に後継者として指名されていなかった。という話があります。
一般に、武田として知られる勝頼ですが、信玄が没するまで「諏訪勝頼」を名乗らされていました。信玄の滅ぼした諏訪氏の姫と、信玄の間に生まれた子であるために、「諏訪」様と呼ばれ、信玄は後継者として、勝頼の息子「信勝」を指名。勝頼は「信勝」成人までの後見人に任命されています。通常、後継者には親の一字が与えられるので「勝頼」と命名された現実を見ても、信玄は後継者として見ていなかった。と覗えます。(徳川秀忠の場合は、秀吉との政治的力学が働いた)
遺言に背いて、勝手に家督を相続した事で、譜代の重臣たちとの間で軋轢が生まれました。
高天神城を落とした宴で、武田四天王の一人、高坂弾正(昌信)は「これは主家、滅亡の兆し」と、つぶやいたと言います。
恐らく、弾正は「無理に落とすべき城ではなかった」と言いたかったのかも知れません。しかし、勝頼からすれば、名将名高い父・信玄の落とせなかった城を落とすことで、周囲に対し「信玄公を超える御器量」と思われたかったのかも知れません。
武田勝頼が相手なら勝てる」
私見ですが、恐らく信長は「武田勝頼なら勝てる」と見ていたと思います。
信玄存命中、信長は、徹底して媚びへつらい、信玄上洛の際も「足利将軍から天下を簒奪しようとしている。と思われているのは誤解です」とか「信玄公オジキ上洛まで畿内を掃き清めますので、今しばらく待って欲しい」等のお手紙を送り、思い止めらせようとしています。家康に対し援軍を送ることを渋ったのも、ひとつには「援軍を送れば、武田に宣戦布告した事になる」と考えていたのでしょう。
武田勝頼に代替わりし、離反する家臣も観えた事で、「今なら潰せる」と、信長は判断したと思います。
因みに
織田信長は、武田信玄だけでなく、越後の上杉謙信にも、贈り物をし「兄貴と呼ばせて」という様なお手紙を出しています。信玄には「伯父貴と呼ばせて」と言い、毛利元就には「親父と思っている」とした手紙も送っています。
信玄、謙信なら、山脈に隔てられて居るとはいえ、背後の強敵でしたから、媚びた外交も頷けますが、遥か西国の毛利元就にまで、気を使っていたのは、油断させたい思いもあったでしょうが、同時に、腕一本で勝ち上がってきた連中を尊敬していたのかも知れません。
毛利元就は「姉川の合戦」の翌年に亡くなりますので、お手紙を送って居たころには、既に、「毛利と対決する頃には、元就も居ないだろう」と想定していたと思います。

違うぞ勝頼

「100の勝てる戦より1の神業」
大河ドラマの中で、武田勝頼はこのように言いました。
父・武田信玄は絶対に勝てる戦しかしなかった。それでは天下は取れぬ。
一回の神業的勝利(大博打に勝って)こそ天運は開ける。
と言いたいのでしょう。
孫子の兵法」を学んでいた武田信玄は「勝てる相手としか戦わなかった」のではなく「戦は、必ず勝という段階まで策を巡らすものだ」と考えていたはずです。
私のご先祖様の主君「謀略の神」こと「毛利元就」も「謀多きは勝ち、少なきは負け」と言っております。勝つ為には徹底的に策を巡らせていました。
後の家康も「博打を打たずして天下を得たものがあるか」とした事を言いますが「数万の家臣、数十万の領民の命。徳川二百五十万石が賭かっておるのだ。謎(運)に頼る戦が出来ようか」とも言っています。
天下簒奪の「関ケ原」でも、家康は豊臣子飼いの大名に調略をかけ、内部を切り崩し、秀吉の義理の甥(妻・北政所の甥)小早川秀秋を裏切らせ、西軍総大将・毛利輝元大坂城に封じ込める等、出来うる限りの策を巡らせています。
その上で勝ち取った関ケ原でした。決して「関ケ原…戦ってみた」的な大博打ではありませんでした。
まあ、あくまでも、ドラマ中の武田勝頼が、あの様に言ってるだけで、実際の勝頼はどう考えていたかは解りません。しかし、設楽原の激闘は、ある種「撤退戦」だったのではないか? と私個人は思っております。関ケ原で西軍に属していた「島津義弘」が敵中突破「前進の退却戦」を慣行したように「素直に引く方が危険」と判断したのではないでしょうか。
いずれにせよ、武田信玄であれば、長篠城のあの失策は在りえなかったと思います。
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