【ザックリ戦国史】戦国鍋テレビ「兵農分離」 #織田信長 #兵農分離 #戦国鍋テレビ

【ザックリ戦国史】戦国鍋テレビ「兵農分離

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一頃、歴史好きな漫画家の間で評判になった「戦国鍋テレビ」という歴史バラエティー番組があります。東京でも、tvk、チバテレ、テレ玉、の受信できる地域であれば、観ることが出来ます。
番組のキャッチフレーズは「なんとなく歴史が学べる映像をお送りする、戦国鍋テレビ」ですが「歴史を知っていれば、なんとなく笑える、戦国鍋テレビ」という感じです。戦国史をパロディで送る、大変面白い番組で、再放送があると結構観ています。今回、番組の中で「兵農分離」を扱っていました。

兵農分離

一般に、織田信長が進め、豊臣秀吉が踏襲し、事実上完了したのは、徳川家康の死後十数年。といわれる政策です。
最近の解釈では、戦の度に、農民を徴兵していては、米が育てられない。農作業、すなわち食糧事情に影響するため、織田信長が農業専業、兵士専業にした。この様に思われている様ですが、少し誤解があると思います。(そういえば、ゲーム等でも「兵雇用」モードから「徴兵」に変わっている)

【戦国の初期~中期の合戦は公共事業である】

戦国時代、初期~中期。いくさといえば、農閑期に行われることが主でした。主というより、農閑期の公共事業でした。田植えが終わり、刈り入れの秋まで「隣国の領土を奪いに行こう」というので、合戦に参加する百姓達は、一人当たり「玄米一斗」を持って戦に出向いていました。戦に勝ち、活躍していれば、戦後、新しい土地を分けて貰え、軍団での役も上がる。働き次第でどんどん出世出来る。いわば戦国ドリームでもありました。
「米一斗」は一人当たり、三~四か月の食料で、戦も、この三~四か月でカタを着けなければなりません。籠城戦になれば、籠城側も三~四か月辛抱すれば、敵は撤退してくれていました。食料が尽きるから撤退する訳ではなく「農繁期に入る」からです。

【信長が専業兵士を求めた動機】

織田信長尾張織田家の当主になった頃も「合戦とは農閑期にやるもの」という実態は変わっていませんでした。しかし、尾張の兵士は京・大坂周辺の兵士と並んで、天下最弱と言われていて、逆に、東隣の三河、北隣の美濃の兵は、かなり強い事で知られていました。真っ向から勝負すると、なかなかに勝てない。
そこで、信長が考えたのが、
農繁期に攻め込んだら勝てんじゃね?」
という物でした。
「しかし、農繁期では兵が集まりません」
そういう家臣も居たかも知れません。いや、居たようです。
「バッカじゃね。だからぁ、こっちは常備軍を用意すんだよ」
織田信長は、商業地の伊勢・長島を抑えていたので、ここからの「矢銭」(上納金)で一万の兵を雇う事が出来ました。この一万の兵でもって、農繁期に戦を仕掛けたのが、兵農分離の走りだったわけです。
濃尾平野は当時日本一の穀倉地帯だったので(平野としても関東平野に次ぐ第二位)、尾張一国の面積は狭いものの、信長が統一を果たした時、既に、五十五万石の大身でした。加えて伊勢・長島の矢銭があったので「桶狭間」における、二千五百の兵で、西上する今川軍二万五千(諸説あり)に当たったとするには、疑問があります。ま、それはまた別の機会に。

【専業兵士制広まる】

各国で、武田、上杉、北条、毛利、等の大大名が現れ始めると、戦も大規模に成って行きます。遠征する距離も、山一つ越えた隣村という訳にはいかなくなり、籠城戦も、農繁期を過ぎて越年する事も多くなりました。毛利元就の「月山富田城(尼子氏の居城)攻め」も、1565年~1567年、二年に及んでいます。こうなると、兼業農家で兵士をやることが難しくなり、専業兵士が必要になってきます。

桃山時代に入ると明らかな徴兵もありました】

私の先祖は、毛利傘下の豪族でしたが、その菩提寺の記録に、徴兵の足跡があります。時代は朝鮮の役の頃で、海外遠征を嫌がる百姓達を強引に徴兵した記録がありました。

【結局兵農分離は】

江戸時代に入って、概ね、兵農の分離は進みはしましたが、身分の売り買いも盛んでしたので、結局、明治に至るまで、兵農分離は完全に行われてはいなかった。とも言えるかもしれません。
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