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戦国時代の鉄砲事情


設楽原の合戦
大河ドラマでは、古典的伝承通りの織田の「馬防柵」に武田の「騎突」で描かれましたね。
甲斐・武田軍は、信玄の昔から「鉄砲は卑怯な道具」「戦場では余り役に立たない」と判断していた。と説く古文書もあります。
しかし、1550年「第二次・川中島の戦い」で、武田信玄は300丁の鉄砲を使っていますし、長篠・設楽原頃の武田軍は一千丁の鉄砲を保有していました。
武田勝頼長篠城に執着した理由
現在では、鉄砲の弾丸に使う「鉛の確保」説が有力です。
鉄砲玉には、「鉄丸」「銅丸」などもありましたが、どちらも加工し辛く、低温度で融解する鉛が最も好まれました。
しかも、鉛は適度に柔らかく、鎧に当たっても弾かれにくく、貫通力も高い。敵に、効率よく衝撃を与えられました。
武田領内には鉛の産地が無く、遠く西国から輸入するしかありません。しかし、西国からの輸入ルートは、織田信長によって封鎖されている。甲斐から近い、長篠城北部は、東国では数少ない鉛の産出地であったため、武田と徳川で争っていたようです。
鉛不足の武田軍
ドラマでは騎馬軍団がまるで特攻隊のような、絶望的な攻撃を仕掛けていましたが、設楽原では、武田軍が放ったと見られる、銅製の弾丸も沢山発見されています。(とは言っても、希少金属として戦後に回収された弾丸は多く、さらに、その跡を地元民がさらったと見られている)双方、激しい銃撃戦があったのは確かで、鉄砲の数で負けた、というより、弾丸不足から武田軍は敗走したのではないでしょうか?
西国大名の鉄砲事情
戦国の昔、鉛は銀の「吹き分け」(精錬)にも使われる金属でしたから、世界最大級の銀山を保有し、当時、世界の10%~30%の銀を産出していた「毛利氏」は、戦国最大の鉛の保有国でもありました。加えて、中国地方は良質の鉄が大量に採れ、「明国」等、外国にも輸出していた程でしたから、鉄砲の生産力も高かったようです。信長でさえ、鉄は西国から輸入せざるを得なかったと言います。因みに、九州。取り分け「種子島」も良質な鉄の産地でした。
大友宗麟の鉄砲
豊後・大分の戦国大名で、所謂切支丹キリシタン大名。洗礼名は「ドン・フランシスコ」。
本能寺の変」の年、1582年には、同じ切支丹大名の大村純忠すみただ有馬晴信らと、天正遣欧少年使節てんしょうけんおうしょうねんしせつだんをローマに派遣しています。
この、大友宗麟の元を宣教師ルイス・フロイスが訪ねた時、余りの鉄砲の多さに驚き、「殿はいかほどの鉄砲をお持ちですか?」と尋ねたところ「ざっと、三千丁」と答えたと、「ルイス・フロイス日本史」に書かれています。
これに対して、歴史家のなかには、「織田信長でさえ、設楽原で揃えた鉄砲が三千丁。うち半数は鉄砲傭兵根来ねごろ衆だった事考えれば、大友宗麟の三千丁は在りえない」としていますが、西国大名の経済力、物資の保有力を考えれば、まんざら、宗麟の見栄とも思えません。三千丁では無かったかもしれませんが、ルイス・フロイスの目には、大友氏の鉄砲の多さは尋常ではなかったのでしょう。
根来衆紀州(和歌山)根来寺を拠点とした鉄砲傭兵集団。同じ紀州の鉄砲傭兵集団「雑賀さいか衆」の方が有名だが、設楽原当時は織田信長と一向門徒弾圧など宗教上の問題で対立していた。
【メイド・イン・ジャパン】戦国時代、日本の鉄砲保有数は50万丁といわれています。安土時代頃には、既に海外輸出していたほどだったそうです。当時、ヨーロッパで発行された世界地図にも、鉄砲を担いだ日本人が挿絵で紹介されています。欧州でも「鉄砲といえば日本」という程に知られていたようです。
余談、黒人侍「弥助やすけ
本能寺の変」の前年。1581年に信長に謁見したヴァリアーノ神父の連れていた、黒人奴隷を信長は貰い受け、「扶持もち士分」(侍)に取り立てて側近として侍らせていました。
本能寺の変でも、信長を守り戦った様ですが、信長から「弥助は落ち延びよ」と諭されて、本能寺を脱出。九州へ落ちたとも言われています。
実際、戦国時代の九州では、黒人の砲兵隊隊長、鉄砲隊隊長が複数居たようなので、弥助も九州の大名に仕えたのかも知れません。

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