切腹が武士の死にざまになったの何時から #戦国時代 #切腹 #備中高松

切腹が武士の死にざまになったの何時から

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「武士の自決」と言えば「切腹」というイメージですね。でも、一体いつから武士の自決が切腹となったのでしょうか? 確かに、武士が日本史に登場した頃から、戦に敗れ、万策尽きた時(逃げ場もなくなる等)、武士は覚悟を決めて「自刃じじん」はしていました。
ですが、切腹とは限りません。むしろ、切腹より、頸動脈を斬るとか、太刀や刀を逆さに床に着け、倒れ込むようにして心臓を突く等が主流でしたし、松永久秀などは、切腹どころか、火薬による爆死を選択しています。戦国時代、武士は、潔さは愛しましたが、死に至るまで、時間が掛かり苦しみ抜く、切腹はあまりしていません。
では、いつから、武士の自決が「切腹」になったか?
【秀吉の備中・高松攻め】
織田軍司令官の一人、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が毛利方の高松城を水攻めしている時、信長が本能寺に倒れた知らせが届きます。秀吉は急ぎ毛利方と講和し、京都に引き返さなければならない。
講和の条件の一つとして、高松城主・清水宗治の自決がありましたが「切腹」を要求したわけではありませんでした。
清水宗治備中高松城主のこの頃。既に、毛利家当主は元就から孫の輝元になっていて、その叔父の小早川隆景の家臣でした。城兵五千の命と毛利を織田信長から守るため、自刃を受け入れます。
この時の潔さで、清水宗治はゲーム「信長の野望」の中でも、毛利氏に対する、忠誠度は100に設定されています。
清水宗治切腹に85000「いいね」が付く】
人工湖に浮かぶ高松城。西に毛利五万。東に織田・秀吉軍三万の軍勢。城内の五千の兵が見守る中、清水宗治は、湖水に舟を浮かべ、一番苦しい自決法「切腹」を選択します。この勇気に、その場で85000「いいね」が付き、トレンドネタのひとつとして、戦国の世にバズってゆく事に成ります。
【武士の自決「切腹」が流行に】
ここから、武士の自決は一番苦しさを伴う「切腹」こそがカッコイイとされてゆきます。
ですから、本能寺で、清水宗治よりも少し前に自決した織田信長は、切腹ではない可能性があります。むしろ、敵に首を奪われる可能性の高い、切腹は避けたのではないでしょうか。
その後、切腹は武士自決の主流となり、いかに苦しい割腹法があるかが研究されます。
苦しければ苦しいほど、武士としての格も上がりました。
【究極の切腹法生まれる】
腹を横に三回引く「三文字腹」、十字に引く「十文字腹」等が、作法の途中で介錯を入れられないだけに切腹の最高峰とされました。
【究極の切腹を実践した男】
幕末。「南海の黒龍」こと、武市半平太は、土佐藩でのクーデターを咎められ、切腹を命じられますが、半平太は「三文字腹」を宣言し、見事に実行しています。その胆力に、土佐藩主・山内容堂は驚き「惜しい人物を切腹させてしまった」と後悔したほどでした。刃物を突き立てただけでも、苦しいのに、それを横に引き、さらに三回も繰り返すなんて確かに、常人の胆力ではありませんね。
【武士として一番不名誉な死に方「斬首」】
新撰組近藤勇は、大久保大和と変名した後、官軍の手により、下総流山で斬首されています。斬首は武士としては一番不名誉な死に方でした。それだけ、新選組に対する、官軍側の恨みが深かったことなのでしょうが、私だったら名誉より、比較的楽な斬首の方が良いな、と思ってしまいます。
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