上杉謙信は本当に戦闘力100だったのか #上杉謙信 #川中島 #武田信玄 #戦国時代

上杉謙信は本当に戦闘力100だったのか

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歴史好きで、戦国時代も好きな私は、光栄の「信長の野望を今でも結構やります。
シリーズの中で、上杉謙信はいつも戦闘力100として扱われていますが、時々、
「本当に負け知らずと言えるだろうか?」
と思う事があります。
確かに、謙信は、戦いの神「毘沙門天」に「僕は一生エッチしないので、全ての戦に勝たせてください」と、願を掛けたほどの戦バカです。(正しくは「女人と交わらないので」と言ったらしい。謙信、男色説あり。跡継ぎの景勝は謙信の甥)
真っ直ぐな性格だったようで、地侍や家臣の利益を余り顧みることがなかった為に、関東に出張中に謀反が起きたり、領国経営には中々苦労された人物です。お人よしな一面もあったらしく、ゲームでも間者を送り込むと、簡単に情報を得られたりします。
上杉謙信が活躍した頃の武士は「信義」によって働くわけではなく「利」によって働いていたので、持ち出しばかりが嵩む「儀」の戦は嫌いました。
大名とはいえ、家臣達は基本「知行地」を持つ武士、その集合体のボスでしかないので「利」をもたらしてくれないリーダーでは、離反する武将が増えても仕方なかった時代でした。
「儀」が武士哲学の中心になるのは、桃山時代の末期、石田三成直江兼続等の登場を待たねばなりません。
さて、上杉謙信。北信濃川中島で甲斐の武田信玄と、五回も戦って引き分けています。
でも、よくよく考えると、これって、本当に引き分けだったのでしょうか?
武田信玄は信州、果ては日本海に向けての拠点として、川中島を死守せねばならない。
上杉謙信としては、春日山城からほど遠くない、川中島を信玄から奪還しなければ、落ち着かない。という立場です。
【戦の勝敗は死傷者の数では決まらない】
たまに「戦争の勝ち負けは死傷者の数で決まる」という文化人がおられますが、それは、全くの誤解だと思います。もし、死傷者の数で決まるのであれば、第二次大戦で最も死傷者を出したソビエト(死者・二千八百万人と言われている)は、ダントツの負け国家でないとおかしい事になります。
逆に、中国だけで二千万人の死傷者を出したと言われる、日本は戦勝国でないとおかしい事になります。(二千万人説は、明らかに中国側の捏造ですが、二千万人も殺せる軍隊を持っていれば、日本は本当に世界最強だったでしょう)
硫黄島の戦い」でも、米軍十一万と二万の日本軍が戦って、米軍の方が約三万人の死傷者を出しました。日本は二万弱が戦死となっていますが、開戦前に既に半数の一万人が赤痢で戦えない状態でした。これなども、死傷者の数で言えば日本の勝なはずです。
【戦とは「目的を達成した方」が勝ちである】
硫黄島の戦いで、米軍は、所謂「蟻布」(蟻のように群がる布陣のこと。戦術としては最も下品げぼんとされる)を用いても、硫黄島を奪ったので「目的」を達成しています。つまり、どんな犠牲を出しても、目的を達成している米軍の勝なわけです。
その意味で考えれば、上杉謙信は、川中島を奪還する。と言う目的を達成していないので「負け」と考えることができないでしょうか。逆に守り通して、北信濃の支配力を強めた武田信玄は、にらみ合いだった、第五回川中島の戦いを含め、五連勝していると言えるのではないでしょうか?
ん、な訳で、時々、上杉謙信の戦闘力100を疑問に思ったりします。
ゲーム機100選
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