豊臣秀吉の興した物流経済 #豊臣秀吉 #廻船 #物流

豊臣秀吉の興した物流経済


そろそろ、本能寺の変も近づいてきたので、天下の後継者、豊臣秀吉という人物について、少し書きたいと思います。
秀吉は、晩年の愚行「朝鮮出兵」がために、世間的評価は少し落ちる感があります。
確かに、晩年の秀吉は、往年と別人の様な行動を取ります。
「大明に討ち入る」と言い出しましたが、往年であれば、朝鮮に対して「明までの道案内をしろ」という高圧な態度は取らなかったでしょう。
本来なら、まず、朝鮮に接近し、朝鮮が宗主国として明をどう見ているかを探り、反明派と親明派を見極めたのち、反明派を上手く利用しつつ、朝鮮を味方に付ける工作をしたはずです。
しかも、明に討ち入る時も、明国内の有力不満分子を上手く利用したでしょう。
秀吉という人は、フルコンタクトの様な合戦は、兵の疲弊も激しく、浪費が嵩む事を、熟知していました。北条氏の小田原城を包囲した時も、持久戦を展開しながらも、城の周りで経済を循環させていた様な人物です。
合戦の前に、敵内部を切り崩す式で戦ってきた秀吉が、朝鮮の役では、正反対の泥沼戦を展開したのは、人変わりしたとしか思えません。
現代では「晩年の秀吉は、アルツハイマーを患っていたのではないか?」という見方が主流になっていて、私も、その意見に近い考えです。老耄していた事は事実でしょう。

【信長亡き後の秀吉の功績】

織田信長という人も、経済に明るい人だったと思いますが、秀吉はさらにその上を行く、経済感覚の持ち主だったと思います。
秀吉は、天下を手中に収めた後、大坂に全国の物資を集める事を思いつきます。
まあ、構想自体は一武将時代から持っていたでしょうが、大坂に、全国からの物資を集め、そこで値を付けて、また、全国に輸送するという事をしました。
例えば、南北海道松前藩は、当時、米が作れませんでしたが、昆布など本州以南では珍しい海産物を大坂で売り、売ったお金で米を仕入れる。という事をしておりました。
各藩(桃山時代「藩」という言葉はまだ使われていません)が、それぞれの名産、物産を大坂に持ち込んで売り、売ったお金で自国にない物を買ってゆく。天下で売れるためには、より良い物を作らなければならない。
こういった仕組みによって、全国に、満遍なく物が行き渡り、物流が活性化する事で経済も豊かになります。物が動けば、それらを管理するための、数や売り上げを把握する為の書類が必要になり、計算できる能力も必要になります。経済に参加する為には「読み書き算盤」が必要になりました。逆を言うと「読み書き算盤」が出来れば、誰でも経済に参加できる社会を誕生させたのが秀吉でした。
「これからは、土地の時代ではない、経済の時代だ」
そう考えていた秀吉は、領地には余り拘りませんでした。
これらの仕組みは、徳川時代になっても踏襲され、大坂は「天下の台所」として、機能していましたし「読み書き算盤」が全国に浸透し、江戸時代の識字率は、時期にもよりますが、60~80%にも上りました。これだけ識字率が上がると「出版業」が成り立ちます。江戸時代の代表的な出版社では「ツタジュウ」事「蔦屋」蔦屋重三郎が有名です。これらも、辿れば秀吉の功績と言えます。因みに、同時代のイギリスで識字率20%だった時、既に出版がビジネスとして成立していましたから、江戸時代の出版業は、かなり景気が良かったかも知れません。
※この記事は、こんな見方もある。という、考えのひとつとして読んで頂ければ幸いです。
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