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どないする家康「淀殿

豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかったのか?

淀殿は女狐
ドラマでは、秀吉に取り憑いて、悪政を敷かせている。という設定です。
多分、秀吉の死後、この「女狐」から安寧な天下を取り戻す。という運びになるのかも知れません。
だとしたら、上手い理由を思いついたものです。
従来ならば、秀吉の死後に家康は心変わりしたように、身勝手な政治活動を始めます。
大名間の勝手な婚姻は御法度でしたが、家康は豊臣家臣・福島正則らと無届けに婚姻を結びます。
この法は、大名同志の結託、謀反を警戒した豊家の知恵でしたが、関ヶ原直前にこれを無視した家康自身、江戸時代に入って「大名間の婚姻は禁止」(原則)と致しました。
秀吉は死期を悟った頃から、徳川家康毛利輝元五大老石田三成浅野長政五奉行に「秀頼を粗略に扱わず…云々」の誓い紙を何度も出させ、枕元に呼んだ家康には、直々に「秀頼の事、くれぐれもお頼み申し候」と頼んだと記されています。
ドラマ予告では、秀吉は女狐から、今際いまわきわに秀頼は実子ではない事を知らされる感じですね。
で、枕元で家康に天下を譲る遺言を残すのかもしれません。
会津・上杉の反旗。関ヶ原石田三成ではなく、女狐・淀殿の戦略という解釈になるのかもですね。上杉家臣の直江書状をどう扱うのか楽しみです。(スルーしたりして)
「豊家秀頼」から天下を奪ったのではなく「淀殿」から、天下を守った戦になるのかも知れません。まあ、徳川は淀さんの事を「淀君」(娼婦の淀)と呼んでいた事からも、好意的ではなかったのは確かでしょう。家康の妻・築山殿同様、負けた側は後世ひどい語られ方をいたします。
秀頼は秀吉の実子ではない
という説は確かにあります。
秀吉は小男で、成人した秀頼は190センチを超える巨漢であったと言われています。名護屋城を離れてからの懐妊と言う事と、側近の大野治長の背が高かった事などから、治長との子ではないか? と疑われています。
しかし、秀頼は浅井の血を濃く受け継いでいた。という解釈もできますし、遺伝子は組み合わせなので、身体の小さい者同士(淀殿は小さくなかったらしい)でも、子供は大きくなる場合もあります。(確率的には20%らしいですが)
秀吉の側室で懐妊したのは淀殿だけだったので、ルイスフロイスも「太閤に子種なし」と記しています。
しかし、一方で、秀吉には、織田家・長浜時代に実子がいた記録もあります。一人は病没「秀勝」(信長からの養子と、実の姉の息子を含め三人の秀勝が居た)、一人は行き方知れずの女児となっておりますが、この秀勝と、淀殿の生んだ鶴松も、北政所こと寧々さんが育てていて死なせていますから、秀頼は淀殿自身が育てました。
淀さんは、秀勝も鶴松も北政所に殺されたと観ていた節もあり、寧々さんも豊臣家に我が血筋が入らぬ事を不満に思っていた節もあります。
血のつながっている甥、金吾中納言小早川秀秋(羽柴秀俊)を関白候補の一人に推したのも、関ヶ原で金吾に徳川に付くように諭したのも、そうした気持ちの表れだったのかも知れません。
大谷翔平…ではなくて、大谷吉継も一説には秀吉の実子(隠し子)と噂され、寧々さんから毒を盛られて顔が崩れた。との説もあります。
が、まあ、これらは全て、確固たる決めてに欠けていて、後世人の邪推にしか過ぎません。
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