武田信玄 三方ヶ原の戦い #武田信玄 #信長 #家康 #三方ヶ原 #静岡

武田信玄 三方ヶ原の戦い

割と有名な信玄像、実は能登畠山氏肖像といわれている
信憑性の高い信玄像、入道まえ「晴信」を名乗っていた頃と言われている

「どうする家康」とりあえず見ています

ざっくり、三方ヶ原の戦い
現在の静岡県、浜松駅北部に広がる「三方ヶ原みかたがはら」で、武田信玄徳川家康・織田援軍の間で行われた戦いです。
上洛、西上を急ぐ信玄軍は、籠城を決めていた家康を無視するように、浜松城の前を素通りします。
見過ごせば、生き残れる。しかし、それは武人として、臆病者のそしりを受け、領内からの支持率も下がります。素通りを許せば、信玄は確実に徳川本拠とも言える岡崎を攻めるであろう、と判断した家康は、武田軍を追撃する形で出陣します。
戦国最強と呼ばれた武田軍であっても、三方ヶ原の端から、細い坂道を下る所を攻められればひとたまりもありません…のはずでしたが、信玄は三方ヶ原を下らず「魚鱗の陣」を敷いて家康を待ち構えていました。
結果、徳川・織田連合軍の大敗。徳川家康は、単騎、這う這うの体で、浜松城へ逃げ帰ります。
三方ヶ原の戦いこぼれ話
有名な話ですが、退却する家康は、余りの恐怖に、馬上で脱糞したと言われています。
帰城したとき、家臣にその事を指摘されますが、
「焼き味噌じゃ」
と返したと言います。
帰城直後、この恐怖を忘れまいと、絵師を呼び、床几ではなく椅子に腰かけた姿を描かせています。
徳川家康公 しかみ像」と言われますが、この時、お尻の始末はまだしてなかったんでしょうね。因みに、この「しかみ像」は家康ではない。という説もあります。

問題の「しかみ像」ウンコ漏らしたまま描かせたのでしょうか

放胆にも城の全門を開放
万策尽きた家康は、帰城後門を閉ざさず、逆に開け放ったと言います。
追撃した武田兵は、これを観て「何かの策か?」と思い、攻め込めなかったと言われています。
真実がどうかは解りませんが、三方ヶ原の合戦は夕刻に始まっていますので、日は直ぐ落ちたでしょうから、追撃はしにくかったでしょう。先を急ぐ武田信玄は「深追い無用」としていたので、12キロも離れた浜松城まで追撃した兵がいたとは思えません。…バスで追撃したりして…
逃走中に食い逃げ
単騎逃走中。茶店で団子を食べた家康。追手が迫って来たので、団子代を支払わないまま逃げ出しますが、茶店のお婆様にも追いかけられて、団子代を取り立てられる。と言うお話もあります。多分、大河ドラマの中では、柴田理恵さんが、その茶店のおばば様なのでしょう。
追手の一人は島左近
大和の生まれ、筒井家の重臣だった島左近が、一時、筒井家を辞し、三方ヶ原の時分、甲斐武田氏食客として身を寄せていた、というお話もあります。
信玄西上の折に同行し、三方ヶ原では、敗走する家康を追ったと言います。
その後、島左近は筒井家に戻り、豊臣時代は石田三成の家老となって関ケ原の合戦で、石田隊を指揮。奮戦の末戦死いたします。
甲斐武田と言えば騎馬軍団
実在はしましたが、所謂、密集した騎馬隊の突撃戦法は、ほぼほぼ無かったと思われます。
歴史ドラマなどでは、有名な「長篠の戦」で、突進してくる武田の騎馬隊を織田の鉄砲隊がことごとく射ちとる様に描かれますが、日本の地形上、騎馬を密集させて疾走させる事は難しく、大抵の合戦は徒兵が主力でした。
ただ、武田軍は足軽でさえ乗馬している程に、馬の数は多かったようです。
「疾きこと風の如く」
武田軍団の行軍の速さは、馬を使った速さだったと言います。
戦場では、一部例外を除いて、皆、下馬して戦ったようです。
「どうする家康」の中でも、武田軍の異常な行軍速度が取り上げられていましたが、殆どの兵士が乗馬していたからでしょう。
三方ヶ原の思い出
今から、二十数年前、一週間ばかりの有給休暇を取って、東海道の戦国古戦場を巡った事があります。
この時「三方ヶ原」にも行きました。浜松駅からバスで行き、最寄りのバス停から歩きましたが、今の様に、グーグルマップのある時代ではありません。
紙の地図だけが頼りで、想定していた時間では辿り着けませんでした。
「迷ったかな?」
不安になって、道路沿いのとあるお店で訊ねてみると、
「聞いたことはあるんだけど、場所までは知らない」と言います。
「でも、二軒隣の○○さんなら、この辺三方原の歴史に詳しいし、本も出した事あるから、聞いてみては?」
親切に言っていただき、言われた通りに訊ねると、出てきた○○さんは、何故か、自費で出版した「三方原みかたばらの歴史」を小脇に抱え、目をキラキラさせていました。
「あ、電話の方?」
「えっ?」
「○○屋さんから、電話あって」
「ああ、そうなんですか…すみません」
親切にも電話を入れて頂いたようでしたが、なんだか、ちょっと、面倒な展開になる気配もしました。
で、案の定、講談よろしく武田信玄vs徳川家康のお話がはじまり、いつまで経っても場所が聞き出せない。
大体は知っている「三方ヶ原合戦箪」を延々と聞かされた後、なんか成り行きで、三方原の歴史本を一冊頂き、場所を教えていただきました。
なんと、最初に道を聞いたお店から、北に百メートルも行かない所にありました。
まあ、地元の人の方が知らない。という事は、京都なんかでもよくありますけどね。
三方ヶ原のあと、長篠、岐阜城大垣城彦根城安土城長浜城等々を巡りましたが、関ヶ原ではレンタル自転車で巡っていると、スーパーカブに乗っているおっちゃんに捕まって、関ヶ原の戦がどれほど接戦だったかを、延々聞かされました。
どこの観光地にも、こうした「勝手に観光案内」なおじさんって居ますよね。
この記事が面白いと思ったら、ブログ村プロフィールをポチしてください
PVアクセスランキング にほんブログ村
子育てヒロシのオフィシャルブログ - にほんブログ村