近江屋事件 坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺
近江屋事件 坂本龍馬の暗殺と言えば、信長暗殺「本能寺の変」と並ぶ、日本史史上、有名かつ謎多き暗殺事件です。
慶応三年(1867年)十一月十五日、五ツ半(午後八時半ころ)京都・河原町「近江屋」で事件は起きました。
十津川郷士を名乗る数名の武士に踏み込まれ、海援隊隊長・坂本龍馬と陸援隊隊長・中岡慎太郎の両名は斬撃され死亡。
両名とも「薩長同盟」に尽した英傑で、事件後中岡慎太郎は二日ほど生きていました。世に、知られる事件の顛末は、この中岡慎太郎の証言によるものです。
現在では「京都・見廻り組」の犯行である事に、ほぼ落ち着きつつありますが、この事件は色々と謎が残ります。【坂本龍馬グッズ】
まず、事件当初「新撰組」の犯行だと思われていました。
新撰組の分派「御陵衛士」(高台寺党)の頭取・伊東甲子太郎が、現場に遺された蝋色鞘を「新撰組・原田左之助」の物と証言。同じく遺留品のひとつである下駄が、新撰組行きつけの料亭「瓢亭」のものであったため、疑いは新撰組にかかりました。
しかし、原田左之助は犯行を否定。そもそも暗殺のプロが遺留品を残すようなヘマをすると思えません。それも、刀の鞘を遺すという。
大政奉還が成った後とはいえ、たかだか、ひと月前の事。佐幕派の気運としては、坂本を暗殺したとしても、堂々と犯行声明を出していたはずでしょう。後の「鳥羽伏見の戦い」を見ても、佐幕派の気運の高さが分かります。
大政奉還が犯行動機であれば、直接将軍家と交渉した後藤象二郎の方を狙ったと思います。(傍目には「あいつが画策しやがった」と見えたでしょうし)
見廻り組の犯行だとしても、新撰組に罪を擦り付けるより、名誉として自分たちの手柄にしたと思われます。
そもそも「坂本を殺った事がバレたらまずい」という政治感覚を持っていたのなら、凶行には及ばなかったでしょう。
「見回り組」にせよ「新撰組」にせよ、幕府は坂本・中岡両名の捕殺より捕縛を望んでいました。
薩長の正規武士を捕まえれば、薩長と幕府の外交問題になりますが、そのエージェントであれば捕まえてた所で、これは薩長も口出しは出来ない。口出しすれば「何故、不逞の輩をお庇いになるか?」となったでしょう。(大政奉還の直前に坂本は土佐藩に帰藩した形になっている)
寺田屋で坂本龍馬を幕府捕手が囲んだ時も、捕縛が目的でした。捕縛し、締め上げれば、薩長の機密を聞き出せたからです。中岡も同様に幕府から狙われていました。
私の想像ですが、恐らく、暗殺の実行犯は「伊東甲子太郎」率いる「御陵衛士」で、黒幕は薩摩藩ではないかと思っています。土佐藩も或いはそれを了解していたかもしれません。
伊東は、新撰組離脱後、薩摩藩に急接近していました。
薩長同盟が成り、薩長土肥となりつつある薩摩藩としては、知り過ぎていた男達、エージェント坂本とエージェント中岡は不都合な存在になったのではないでしょうか?
伊東は、薩摩藩への手土産として、両名の暗殺を実行したのではないかと想像しています。
事件の三日前、伊東は坂本・中岡両氏に新撰組が狙っている事を、わざわざ告げにいっていますが、二人の今後の動向を探る為と、犯行後に新撰組に捜査が向く様に事を進めようとしたのかも知れません。
そして、事件の三日後、伊東甲子太郎の方が油小路で、新撰組の手により暗殺されます。伊東の計画に、近藤・土方らが怒ったとも考えられます。(伊東さんも他人の心配している場合ではなかったんですね)
結局、誰がやったかは、解らない謎の多い事件ですが、いずれにせよ、犯人はまだ捕まっていないので、皆さん、お出かけの際は、十分気を付けてくださいね。【中岡慎太郎グッズ】