松本清張と太宰治 #松本清張 #太宰治 #同級生

作家 松本清張太宰治

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太宰治

本好き、小説好きな方なら、御存知の方も多いと思いますが、作家・松本清張と作家・太宰治は同い年でした。
松本清張は44歳で作家デビュー。その時、太宰治は既になく、没後6年が経っていました。
松本清張の生い立ちは、広島、北九州、博多を家族で転々とする生活。しかも両親は正式に結婚してなく「私生児」扱い、貧乏で、進学が出来ず、学歴は尋常高等小学校止まり。
対して、太宰治青森県下でも有数の大地主の子として生まれ、何不自由のない暮らしをし、最終的には東京帝国大学仏文科に進学しています。
松本清張は尋常高等小学校卒業後、㈱川北電気企業社(現在のパナソニックの前身にあたる)を皮切りに、石板印刷工、版下画工、広告図案等を経、自営の版下職人となり。1937年頃、嘱託ながら常勤の朝日新聞西部支社の社員となりますが、1944年に徴兵されます。
同時期、太宰治は、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。その直後、鎌倉で首吊り自殺を図っています。
1935年、第一回芥川賞の選考に漏れ、自身の作品を酷評した選考員に対し、文芸誌で反論しています。第二回は選考員の一人に「頼み」の手紙を出しますが、第二回は「該当者無」。その後、太宰治芥川賞を取る事はありませんでした。文壇の重鎮とも言える、川端康成に嫌われた事が大きな理由でもあったでしょう。
(しかし、後に短編『女生徒』を川端康成が賞賛した為に、作品の依頼が急増)
1941年に徴兵されますが、肺結核の為に徴用免除される。
戦後、松本清張朝日新聞社に復職するも、仕事がほとんどなく、アルバイトを転々としながら、一家八人を養い、1951年「週刊朝日」に応募した「西郷札」が三等入選。第25回直木賞候補になります。
太宰治は、1935年頃から、バビナールという鎮痛剤の依存症になり始め、薬物への依存と不摂生な生活が酷くなり始めます。自殺未遂を繰り返すようになりますが、同時に、作品として優れた小説を残し始めます。
1948年(昭和23年)『人間失格』『桜桃』などの作品を最後に、同年6月13日、玉川上水で愛人の山崎富栄と入水自殺を図ります。満38歳でしたが遺体の発見時は、6月19日。太宰治の誕生日であったそうです。
1953年.松本清張(当時44歳)は「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞し、作家デビューとなりますが、太宰治は既にこの世に居ませんでした。
二人が同い年。という事もあって、なんとも、真逆で皮肉な人生の巡りあわせを感じてしまいます。貧しく、苦労の末、版下画工とはいえ朝日新聞社に採用され、かたや、留年とはいえ東京帝国大学まで進んだ太宰治は新聞社に落ちる。作家として名を上げながらも、熱望した芥川賞に取れず、勤務中に書いた小説が認められ、芥川賞を取った松本清張
しかも、松本清張が文壇に立った頃は、既に太宰治はこの世にいない。なんとも、皮肉な気持ちがぬぐえません。
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