どうしようか家康 #どうする家康 #大河ドラマ #戦国時代 #酒井忠次

どうしようか家康

服部半蔵だけは徳川信康を嫌ってなかったのかも知れない

「どうする家康」

もう、どうでも良いんですが、酒井忠次が消えていましたね。
本能寺の変」から六年後に隠居して、息子に家督を譲っていますから、家康江戸転封の頃には、居ないと言えば居ませんでした。
隠居後は京都に住み、豊臣秀吉から侍女付の屋敷を与えられ、年俸1000石を与えられています。家康の叔父に当たる酒井忠次ですが、家康からは隠居料は出なかったのでしょうか?
ただ、家康の嫡男・信康の切腹を決定づけたのは、この酒井忠次の証言だったようなので、家康としては、血縁の叔父とは言え許せない感情はあったのかもしれません。
因みに、室町時代には既に、日本独自の制度「退職金」という考えはありました。
信康の切腹
信康の妻で信長の娘、徳姫から父信長に宛てた信康の悪行及び、武田勝頼との密通を報告した、所謂「十二箇条」の手紙を、信長に届けたのは、外ならぬ徳川家重臣・酒井忠次でした。
信長は、一つ一つ「これは、間違いないか?」と問い質し、忠次もいちいち「間違いございません」と答えたとあります。信長は十二の内、十までを確認した所で、絶句したそうです。
この話は「三河物語」だけでなく「信長公記」「常山紀談」等にも書かれてありますので、事実であったのでしょう。
ただ、最近では、「切腹」そのものは、信長の命によるものではなく、家康自身の判断だった。という説もあるようです。
三河物語」では、十二カ条の内容に間違いはありません。と証言した忠次は、信長から「信康の処分」を命じられましたが、信康の岡崎城を素通りして、浜松城の家康に直接報告した。とあります。
他の徳川家家臣も、多くは信康を快く思ってなかったようで、信康の為に弁護する者は少なかった。と言われています。
まあね、意見した同僚達が「むかつく」というだけで、刺殺されたりしたら、弁護したくないでしょう。
切腹介錯を務めた、信康の守役・服部半蔵は別だったようで、江戸転封後に西念寺を建立し、そこに信康の供養塔を建てていますが、半蔵が唯一、信康の味方だったのか? というと、自らが手に掛けた死者を慮る、当時の宗教観からして、必ずしも味方ではなかったかも知れません。
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