三間槍 #槍 #戦国 #信長 #合戦

三間槍

f:id:kosodatehiroshi:20210330065743p:plain
【三間槍は実在したか】
信長は、兵に長さ三間の槍を持たせていたと言います。(一説には6メートル)
長さ三間と言えば、1.8メートル換算でも5.4メートルにもなります。柄が樫材等で作られ、手槍をそのまま伸ばしたような、所謂「槍」の形では、この長さはテコの原理で、槍はとてつもなく重たくなり、「石突」(槍の尻)付近を持って操る事は困難になります。結局は、槍の柄の真ん中辺りを持つ事になったはずです。石突で支えるように地面に突き、敵に穂先を向けていた。という説もありますが、はたしてこのような方法で戦えたのかは疑問の残るところです。
【ところが、三間柄の槍は実在しました】
手槍を伸ばしたような三間柄の槍が実在したのであれば、その現物の何本かは、現存していてもおかしくはありません。
しかし、象徴として作られたものは別にして、実際に使われていた三間柄の槍は現存していません。何故でしょうか?
【三間槍の柄は竹製だった】
集団戦が当たり前になった戦国の世では、槍は長い方が有利でしたが、前述のように、樫の木柄の所謂「槍」では、テコの原理で重くなってしまいます。
そこで、実際、考えられた三間柄は、孟宗竹の根から先を利用した槍でした。
根が太く、急激に細く成ってゆく孟宗竹が選ばれたようです。
根のボコボコは持ちやすい上に、先細りの竹なら、三間の長さがあっても、逆に扱いやすかった様です。しかも、使われるのは青竹だったらしいので、手元でグルッと回すと、穂先が鞭のようにしなり、甲冑が凹む程の衝撃を与えられる事が、実験でも証明されています。
足軽等の下層兵士は、槍の穂先だけ、そこそこ立派な物を持っていて、戦の度に手ごろな孟宗竹を選び出しては、その先にガッチリ括りつけて戦場に赴いていた様です。
【一間の基準は時代と共に変わった】
幕末近くまで、日本国内でも、一間、一尺等の基準は割とまちまちでした。
現在でもその名残はあります。
例えば、京間(182センチ)と江戸間(174センチ)の他に、「本京間」というものがあり、私の実家は、この本京間で作られています。本京間の一間はなんと191センチもあり、身長180センチ代の人でも楽々横臥できる広さです。
京間も広いですが、京都に住んだ時の四畳半は、実家の四畳半(納戸)より狭くて驚いものです。
就職後、上京し、六畳間に住みましたが「これで六畳?」という程に狭く感じ、京都時代に使っていた四畳半用のカーペットを敷くと、端っこを折らないと敷けない程でした。それでも。古いアパートだったので、団地間(163センチ)よりは広かったと思います。
のちに、下北沢の四畳半(団地間)に住む友人宅を訪れた事がありましたが、まるで三畳の部屋に見えたものです。本京間と団地間では、実に28センチも違います。
現在では、全国的に和室は団地間サイズで作られることが多い様ですね。
【基準の違い。主な理由は増税
正確な税収を得るために、秀吉は太閤検地を行い、以降、一坪(一間四方)辺り、何斗何升の年貢を出せという、地域ごとの税が課せられていました。
例えば、京間寸法で一斗の年貢が決められていたとして、それを、江戸間寸法にしてしまったら、事実上の増税が出来たわけです。当時の日本の東西での米の出来方の差もあったのでしょう、東日本の一間の方が短かったのは事実ですね。
この記事が面白いと思ったら、ブログ村プロフィールをポチしてください
PVアクセスランキング にほんブログ村
子育てヒロシのオフィシャルブログ - にほんブログ村


kosodatehiroshi.hatenablog.com
kosodatehiroshi.hatenablog.com