上方製品下りもの #大阪 #江戸 #幕末 #明治維新

大河ドラマ「青天を衝け」第十四回を観終わって

あれ、松ヶ崎だったんですね

今大河の始まりで、栄一と喜作が慶喜公に土下座した場所。
あれ、洛北・松ヶ崎だったんですね。今では、ノートルダム女子大とか教習所、工芸繊維大学のある街ですが、一頃、私も住んでいました。
川がありましたが、あれは、高野川だったんでしょうか? なんか気になりました。

目から鱗…」

細かい事、言って申し訳ないが
栄一が目から鱗が落ちたようだ…」と言いました。
目から鱗が落ちる」日本の諺のように思えますが、実は、新約聖書使徒行伝」第九章」に書かれている言葉です。
日本にも通称隠れキリシタン」「潜伏キリシタンはおりましたが、御公儀に憚られるため、幕末には、まだ、この言葉は使われていません。明治以降に使われるようになりました。
「何かのきっかけで、物事が分かる様になる」という意味ですが、栄一は潜伏キリシタンか、どこかで聖書を読んだのかも知れませんね。
しかし、目からコンタクトが落ちたら…なんちゃってね。
似たような勘違いに「時は金なり」(Time is money)がありますが、これは、アメリカの格言で、ベンジャミン・フランクリンの言葉です。まあ、こちらの方は、勘違いしている方は少ないでしょうね。

無礼講での日本酒

栄一、喜作が「うめえ、うめえ」と言って飲んでいた日本酒。
以前にも、ちょっと書きましたが、十九世紀になって、江戸は急激に大消費都市となります。
江戸文化の始まりと言ってよいでしょう。それまでは、なんだかんだで江戸時代も上方文化が中心でした。
大坂から、落語家がこぞって江戸にやってきたのもこの頃で、今年で、江戸落語220年位のはずです。
上方でしか作られなかった清酒も、1800年頃から、江戸周辺でも作る事が出来る様になります。しかし、やはり、クオリティーでは、まだ上方に敵いませんでした。幕末の世でも、江戸では上方清酒は「下り物」として評判が高く、質の良い品物は、まだ「下り物上方製品」でした。
お殿様の飲む酒だから、上等で当たり前でもあったでしょうが、上方のお酒は本当に美味かったそうです。

しかし、大変な時代だったんですね

世が世なら、いくら大百姓とは言え、一介の百姓が一橋家のお殿様にお目見え&仕官なんて、なかなかあり得なかったでしょう。
まあ、近藤、土方、坂本、西郷、大久保らも、世が世なら、歴史の表舞台には躍り出られなかったでしょうから、才覚が見い出される時代だったとも言えますね。
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