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日本は外交下手だったのか

ちょっと趣は違うけど、鹿鳴館では「社交」の「ダンス」が踊られていた

ドラマの中で、渋沢栄一らは「日本を一等国」にするため。として、欧米の文化を積極的に取り入れ、懸命になっていました。
「(自分たちの文化とは)異質の文化は認めない」という、当時の欧米の傲慢さが見て取れます。
まがりなりにも、日本にも、礼節があり、法の整備もあり、文物がありました。
しかし、「自分たちとは違う」というだけで、欧米からは、「蛮地」「法整備がなされていない国」とみられていました。
幕府時代に結ばれた「不平等条約」の解消が遅れた理由のひとつにも、「まだまだ西洋の文化とは違う」という側面もあったように思われます。だから「鹿鳴館」で、欧米人相手に踊りまくってもいました。
ドラマ中にもありましたが、当時の欧米は、アジア全域を植民地化する事に力を入れています。
そのアジアの中に、ヨーロッパと肩を並べようとする国が現れる事は、彼等にとって望ましくありませんでしたし、片腹痛くもありました。

猿真似日本

現代の日本人。特に大戦後の日本人は、明治初頭の日本、経済成長期の日本の必死さを、「猿真似」と嗤う傾向が強くなっています。なにより、欧米が日本の躍進を面白くなく、侮蔑していました。
各国の文化が「文化」として、不完全ながらも、まあまあ認められるようになったのは、最近の事で大戦直後まで「欧米と違う文化」は、やはり野蛮とみなされていた様に思います。
それに、第二次大戦では日本は敗戦国。「戦争責任の全ては敗戦国にある」とされ、「大東亜」全域での日本の行いは全て蛮行とする、戦勝国側の造ったストーリーにも原因はあったでしょう。

「遣隋使」「遣唐使」の昔

明治初頭と同様の事がありました。当時、恐らく世界の最先進国であったろう、「隋」と後の「唐」と付き合う為に、文化をすり合わせようとします。
「遣隋使」に関しては、「日本の独立国宣言」が主な目的でしたが、後の「遣唐使」は付き合ってもらうために、必死に「唐式文化」を取り入れています。
そうしなければ、まともに付き合って貰えないからでした。「遣唐使」の甲斐あって、「唐」の方からも人が来るように成ったので、「遣唐使」は廃止されます。

アジアにおける日本の存在意義

日本人の中にも、明治初期や戦後日本の躍進が気に入らないのか、「運の良さ」だけで括ってしまう人はいます。
でも、私は、欧米諸国によるアジア植民地化時代の中で、日本が必死に西洋に対抗した事には、現代アジアにとっても大きな意義があったと思っています。

もし、日本の位置が、あと100キロ大陸寄りだったら

大陸文化の圧力から、日本もコテコテの儒教国になり、「武士政権農民政権」は生まれなかったでしょう。桃山時代の物流革命も起きなかったでしょうし、世界に比して識字率が上がる事もなかったでしょう。国民が目に一文字もない人ばかりだと、明治維新が成ったとしても、「アジアの奇跡」に繋がる事はなかったと思います。

【余談】遣隋使

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」
という国書(独立国宣言書)が有名です。当時、超大国の「隋」を相手に、「独立国」を宣言する事は即潰される心配がありました。倭国日本も同じ「天子」を名乗る事自体、危険な宣言です。
「隋書」によれば、この国書に隋の煬帝ようだい(「ようてい」とも言う)は激怒し、倭国を攻めると言い出しますが、左右の者に止められます。

戦前の少し前まで、日本の外交は決して下手ではない

煬帝を怒らせる宣言書。しかし、倭国側には、「隋は要求を呑む」勝算がありました。当時、隋の天敵とも言える勢力「突厥国」が隋北部に帯状に広がっていました。
半島北部の「高句麗」が、それに同盟して隋に逆らっていました。
倭国を攻めれば、「高句麗」「突厥」と連合し、さらに倭国と関わりの深い、半島西南部「百済国」までも同盟し、「隋包囲網」が出来上がる事を恐れたからです。こうして、その後、倭国は国号を「日本」と改めてからも、独立国の体を守り続けてゆきます。情報の伝わりにくかったあの時代に、よく、状況を見極めていたものだと思います。

「唐」の時代になって

北方の突厥国が東西に分裂。高句麗の独立性も弱くなり、唐は高句麗百済に圧迫されている形だった、半島東南部「新羅しらぎ」(「しんら」とも読む)に働きかけ、まず百済を滅ぼします(西暦660年)。百済とかかわりの深い日本(この頃は日本と称していたようです)は、三年後に百済復興の援軍を派遣。「白村江はくすきえ」(「はくそんこう」とも言う)の戦いに破れます。敗戦後、日本は多くの百済難民を受け入れ、奈良には「百済」と書いて「ひゃくさい」という地名が残って居ますね。遺跡として百済人の残した「オンドル」(朝鮮半島の暖房設備)跡もあります。しかし、日本は半島に比べて温暖だったり、寒冷地にしても雪が多いせいか、オンドル文化は根付きませんでした。(雪が多いと湿気が増える分、気化熱で体温を奪われず寒く感じない)

首都を大津へ

日本は、首都を琵琶湖畔の大津へ遷します。「唐・新羅の連合軍の襲来を恐れて」という見方もありますが、高句麗との連絡を考えて、大津に遷都したと視た方が良いでしょう。
「なら、いっそ日本海側に遷都すれば?」
という向きもあるかも知れませんが、そうなると、奈良方面と遠くなりすぎます。琵琶湖を船で縦断し、日本海を渡る事で高句麗と素早い連携をし、瀬戸内方面にもスクランブル発進出来る大津を選んだのでしょう。(因みに「瀬戸内海」と呼ばれるようになったのは明治以降といわれています)
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