関ヶ原大戦 #NHK #徳川家康 #石田三成 #井伊直正 #関ヶ原

どうでも良いや家康

実際には石田三成の方が「戦の無い世の中」を考えていた様に思います。

どうする家康

しつこいようですが「もう良いや」という感じなんですけど、受信料いるので、意地で観ています。

どうした関ヶ原

大津城

関ヶ原の戦後、徳川家康は捕縛された石田三成と大津城で面会しますが、互いに随分な長舌でしたね。
「何故、このような戦を起こした」
家康は三成を責めましたが、記録を観る限り「仕掛けたのは、むしろ家康アンタの方だろ」と言いたくなります。
三成一人に責任を押し付けるなんて…まあ、「戦争は全て敗者の側に責任がある」というやつですね。
俳優さんもあんな白々しいセリフを言わされて、なんか可哀そうでした。
実際、記録上の家康、三成の対面は、互いに一言も発せず、長い沈黙の後、家康が「斬れ」と短く言って座を立った。とあります。

戦国時代の夜襲は本当にあったのか

昨今、こんな疑問を呈する歴史家的な方々が居られます。
関ヶ原の合戦で、島津義弘が「夜襲ば仕掛けモンそ」(こんな言い方ではなかったでしょう)と提言し、それを三成に退けられた事で、義弘の感情がこじれ、関ヶ原本戦では島津勢は動かなかった。と「関ヶ原合戦始末記」等には書かれています。
そもそも、漆黒の闇。関ヶ原という、島津勢からすれば不慣れな土地で、夜襲は考えられない。という訳ですが、しかし、漆黒の闇でも戸外なら景色の濃淡は見とめられるでしょう。目が慣れれば、山の稜線なども確認できたのではないか? と思います。現代でも、自衛隊や各国の軍隊でも、暗視ゴーグル無で夜間行軍する訓練はありますし、民間でも無灯火で、山を歩く登山方法はあるようです。
女優(俳優と言わんといけんのかな?)の、片桐はいりさんも、夜の山野を無灯火で徘徊する事が趣味のひとつだそうです。片桐さんの場合、よっぽどの時に短く懐中電灯フラッシュライトを灯すそうです。大変危険なので、くれぐれも真似をしないようにね。
「妻女山」や「長篠城」など、結構「夜襲」の記述はあるので、決して不可能な作戦ではなかったのではないでしょうか?
戦国時代は戦術もかなり高度になっていますし、二点の稜線の影等を頼りに、行軍出来る技術はあったのだと私は思いたいです。

※「関ヶ原合戦始末記」
関ヶ原徳川秀忠に従軍した酒井忠勝(合戦当時十三歳)が記した始末記。秀忠軍は合戦に遅刻しているので、関ヶ原での駆け引きのくだりは、忠勝が後に、現場に居た大人達から聞いたものである。

島(嶋)左近

主君・石田三成を逃がす為に、壮絶な敗北戦を展開した事で知られています。
確かに、遺骸は確認されていない説があるので、作家・隆慶一郎さんは自身の作品「影武者徳川家康」の中では、影武者家康が駿府の山奥の庵に、島左近を匿っている設定にしてらっしゃいます。
主君を逃がそうとする島左近の戦いは壮絶だったようで、戦後何年経っても、徳川勢から「恐るべきは島左近」と語られていました。

松尾山城

二十数年前、実際に松尾山に登った事があります。
かつては、単なる山で、小早川秀秋は東西両軍の様子見に陣取ったと見られていました。
しかし、後の調査で城として大規模な工事の跡が発見されます。
松尾山城は、元々、浅井氏が国境の抑えとして築いておりましたが、浅井氏滅亡後に廃城。
「決戦は関ヶ原」と観ていた三成が、大垣城主・伊藤盛正に頼んで、ひそかに大規模改修をしていました。
松尾山城跡は、関ヶ原を目の前に、天然の堀となる川が流れ、山頂付近からも水量も豊富な沢が流れていました。
明らかに兵馬を入られる「曲輪」の跡も見られます。
三成は、野戦の得意な徳川家康関ヶ原におびき出し、その実、苦手な攻城戦に引き込もうと計画していたのかも知れません。
現実の関ヶ原では、小早川秀秋が入城しますが、三成の構想では、名目上の西軍総大将・毛利輝元を入れたかったのではないでしょうか?

大一大万大吉」の旗印を掲げて

石田三成の方が「戦の無い世」を望んでいたのでは
大一大万大吉・One for all, All for one】
「だいいち、だいまん、だいきち」は「一人は万民のために、万民は一人のために尽くせば、安寧の世は訪れる」というような意味です。
このスローガンを掲げていた石田三成の方が、「戦の無い世の中」を考えていたのではないでしょうか? 
家康の立場からすれば、秀吉亡き後、名実ともに最大の実力者になったとはいえ、武力的勝利がなければ、豊臣から徳川への政変はあり得ない。と考えていたと思われます。
三成の目には、それは再び戦乱の世を画策しているようにしか見えなかったのかも知れません。
「悪しき芽は潰す」
そんな思いの挙兵だった様に、私は思います。

ラグビーで言われる「One for all, All for one」

大一大万大吉と同じ「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という意味ですね。
ただ、ラグビーに詳しい人から言わせると「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」が正しいんだそうです。

余談ですが
井伊直政は、関ヶ原での怪我が元で、四年後に他界します。
勇猛な武将だったようですが、戦毎に怪我が絶えず。それが故に、いつも重武装をしていたそうです。
方や、徳川最強の本多忠勝は、天性の戦上手だったのでしょう。軽装備ながら、いつも無傷で帰還していたそうです。
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