小牧・長久手 #戦国時代 #大河ドラマ #どうする家康 #小牧長久手

不満・大河ドラマ「どうする家康」

ムロツヨシさんの事は好きだけど、ドラマの秀吉は魅力の欠片もない

まるで徳川家康プロパガンダドラマ

出演されている俳優陣は豪華ですし(大河ですしね)、好きな俳優さんばかりなんですが、観る度に…「うーん、なんだろう? この詰まらなさは」と思ってしまいます。
観ている私たちは、後世の人間ですし、歴史に興味のある人間なら、その結果も知っています。
「だから」にしても、作品として私個人としては詰まらない。ひとつには、現代人の価値観を盛り込み過ぎている所にも、原因がある様に思いますが、まるで徳川家康プロパガンダドラマに見えます。

余りにも家康を持ち上げすぎ、秀吉その他を矮小化しすぎ

家康の本拠地、岡崎への「中入り奇襲攻撃」ですが、ドラマでは、池田恒興が立案し、秀吉もそれに乗ったものの、失敗に終わったため「池田恒興の考えた作戦だったと言いふらせ」と、なんか秀吉を小狡い人間に描き、家康ファミリーは事あるごとに「戦の無い世の中を…」と言わせています。
こういう所が、個人的には、あざといと言うか、鼻持ちならない演出になっています。
まあ、ここ、何十年か前から、秀吉は酷く描かれる傾向は強いですけど…

小牧・長久手の合戦

秀吉には「先に動いた方が負け」と分かっていたはずです。
秀吉自身、先の「賤ケ岳」の合戦では、敵・柴田側の「中入り「中入れ」」を誘い出すことで、勝利しています。
「賤ケ岳」でも、戦上手の柴田勝家は、「先に動いた方が負け」を熟知していたにもかかわらず、奇襲を主張する甥の佐久間盛政に押される形で「中入れ」を許します。
「ただし、居座ることなく、直ぐに退散せよ」
勝家は厳命しますが、秀吉本隊は遠く岐阜・大垣に滞陣。「数日は戻ってこれまい」と観た盛政は、占拠した秀吉の陣地に居座ってしまいます。
秀吉は其れを待って、大垣に抑えの兵を幾らか残し、全軍に武器・鎧を捨てさせて、一路「賤ケ岳」に走らせました。
街道の村々に、事前に金を撒き、街道沿いに松明を焚かせ、飯の炊き出しをさせ、合戦場手前に新しい武器甲冑を用意させていました。身軽になった秀吉本軍は、夜間、大垣から賤ケ岳・木ノ本までの52キロを僅か五時間で駆けつけています。(大半が騎乗で駆けつけたという説があります)
こんな芸当の出来た秀吉が、小牧・長久手で、奇襲には多すぎる三万という大軍をもって「中入れ」という愚策を積極的に演じたとは思えません。(古来、大軍での奇襲は、どうしてもジャラジャラと目立つので、愚策と言われている)

社長連合VS部長連合

「小牧・長久手の合戦」時、織田信雄のぶかつ徳川家康連合軍は、いわば社長の御曹司と提携会社社長の連合軍でした。かたや、秀吉軍は、まだ「織田会社」内部の部長連中の集まりでしかありません。
「中入れ」を主張した池田恒興にしても、秀吉をまだ同僚として見ていましたし、「なんなら、俺の方が先輩だし」の気分でした。先輩として秀吉に恩を売った位の気持ちだったでしょう。
まだ、朝廷からの官位もない秀吉は、先輩でもある同僚に対して強く命令できる立場ではありませんでした。
「中入れは失敗する」と観た秀吉は、傷が広がる前に撤退、得意の調略戦に切り替えます。

戦術の家康VS戦略の秀吉

小牧・長久手の戦は、「戦術家の家康」と「戦略家の秀吉」の戦いだったとも言えると思います。
家康は目に見える範囲の戦いでは勝利いたしましたが、俯瞰的な「戦略戦」では、秀吉には及ばなかったと私は見ています。少なくとも「小牧・長久手」の段階では、物理的に一時的な勝利は得たが「石川数正」の言う通り、最終的には秀吉には勝てませんでした。

敵・総大将を調略

秀吉の面白い所は、直接、家康を取り込もうとしませんでした。
「こちらに味方せよ」と言った所で「信雄殿に義が立たぬ」と返されればお仕舞ですし、家康も秀吉と和議を結ぶ気はさらさらなく、それ処か、信雄同盟を口実に秀吉と戦いたいに過ぎません。
そこで、総大将の織田信雄。秀吉はこれと単独和議を結びます。そもそもが、信雄に頼まれての連合なので、信雄が秀吉と和睦してしまえば、家康に抗戦する理由がなくなります。織田信雄は愚鈍な人物で、秀吉との和睦を家康に相談すらしませんでした。
こうして、織田・徳川連合軍を崩し、さらに、家康の重臣石川数正」を調略、自身の家臣とします。石川数正が秀吉に転んだ事で徳川内部が崩れ始め、家康は軍法を一変させなければなりませんでした。
多分、ドラマでは「あ・え・て」秀吉に転んだ運びになるのでしょう。
因みに、石川数正は後に、関東・徳川家康の抑えとして、信州・松本城(現・国宝)を築きます。

白は徳川、黒は豊臣

お城には、姫路城の様に白い城と、松本城や熊本城の様に黒いお城がありますが、白系は徳川系列、黒系は豊臣系列といわれています。
秀吉は金色を好み、豊臣時代の大坂城の屋根瓦は、金色だった形跡があります。
金が映える様に、壁を黒にしたと言われます。豊臣期には、おべっかもあったでしょう。各大名がこれを真似ました。徳川期に移り、江戸城の白を真似て、姫路城等が白系で建てられたと言いわれます。

「戦の無い世の中」

結果的に徳川家康が戦国の世を終わらせたために、耳にタコが出来るほどに「戦の無い世の中」を願って戦った様に、ドラマでは言います。
しかし、それは、あくまでも「徳川家安泰」の為の、戦の無い世の中であって、「戦が嫌でたまらない」という物ではなかったでしょう。
秀吉が亡くなった時、遺言通り五大老五奉行で秀頼を補佐し盛り立ててゆけば、戦の無い世の中は作れたはずです。「関ヶ原の合戦」など起こす必要はありませんでした。
あくまでも、家康は徳川家の為に戦ったにすぎません。
このドラマ、家康が嫌いというより、必要以上に持ち上げている所に、不自然さを感じています。
「戦の無い世の中」=「戦争をなくす為の戦争」では、かつての過激派みたいで矛盾を感じます。
まあ、以上は、私個人の「大河ドラマ」に対する不満(金とられて)の一部を書いたに過ぎませんので、「こういう見方もあるんだね」位に見てください。
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