竜馬がゆく(文春文庫)全八巻 司馬遼太郎 著
私の、司馬遼太郎文学の原点。
少年・少女に一番に紹介したかった本ですが、私にとっても司馬文学の原点なので、紹介するにはなかなか気合がいります。何を書いたら良いか分からない。そんな気分です。
なので、思う所から書き出してみたいと思います。
この本が世に出た時「坂本龍馬」の発見
とまで言われ、現在でも、ドラマや映画で描かれる坂本龍馬像は、この「竜馬がゆく」に強く影響されています。それ程迄の秀作で、この作品に溺れてしまう若者が沢山居ましたし、今も、読めば溺れてしまう人は沢山います。
私も、溺れてしまった一人で、溺死寸前までのめりこんだものです。
学生時代が京都だった事もあり、坂本龍馬にハマってからというものは、河原町や四条通りの大型書店に龍馬関連の本を漁りに行き、寺町通りの古書店、時には大阪の日本橋にまで関連本を探しに行ったものです。(大阪日本橋は東京・神田と並ぶ本屋街で、同時に電気屋街でもあります。東京で言えば神田のすぐ脇に秋葉原があるみたいなところですね)
当時の友人達は「また、坂本龍馬の本、読んどるんか? そんなん、どれ読んでも同じような事しか書いとらんで」と呆れていましたが、色んな史実、記録、伝聞、伝説を読んでゆく事は大いに勉強になったものです。
お陰で、大海原「竜馬がゆく」から、私は一応、陸に上がることが出来たのかな? と思っています。
【こぼれ話】
司馬先生は、作品の中で、勝海舟に「薩長連合、大政奉還、ありゃぁ、全部、竜馬ひとりがやった事さ」と言わせています(明治になって実際に言ったらしいですが)。司馬先生は、作品中にもそれに順じた「この日ノ本で、全てが見えてるのは、竜馬さん。おめえだけだよ」的なセリフを言わせています。勿論、司馬先生は「本当に坂本龍馬一人で成し遂げられる程、歴史は甘くない」と言っていますので、先生自身、坂本龍馬が全てを成し遂げたとは思っていなかったでしょう。
ご存じの方、お気づきの方も多いと思いますが、作品「竜馬がゆく」は「竜馬」の字を使っています。ですが「龍馬」が正しいそうで、司馬先生は「これは、史実をもとにした小説ですよ」と言いたいがために、あえて「竜馬がゆく」とされたと聞きます。
【薩長同盟】
坂本龍馬が、画策し、京都・薩摩藩邸で締結された。という印象の強い「薩長同盟」なのですが、画策自体は中岡慎太郎が発起人で、当時すでに、長崎で亀山社中(海援隊)を結成していた坂本龍馬、同じ土佐藩士で長州に身を寄せていた土方楠左衛門(土方久元)らを説得し仲間に引き込んでいます。
京都二本松・薩摩藩邸で薩長が「蛤御門の変」の遺恨から和解し、薩長同盟が実現するわけですが。明治になって「木戸孝允」と改名した「桂小五郎」が新聞記者に「薩長どちらから、同盟を言い出したのですが?」との質問に、
「龍馬よ。坂本龍馬が「西郷さんこれでは長州が可哀そうぜよ」と間を取り持ってくれたのさ」
と答えています。この一言も、後に司馬遼太郎先生が、坂本龍馬を描く動機に繋がって行くわけです。
しかし、色々と資料を読んでゆくと、興味深い事が分かります。
当時の薩摩藩は徹底した管理体制を敷いていました。いわばクーデターを起こそうとしている藩ですから、慎重にも慎重を期していて当たり前です。
薩摩藩邸に出入りする人間を、日常的に取引している「百姓」や「商人」から、ちょっと言伝に来ただけの人物まで「何時来て、何をし、何時帰って行ったか」まで、事細かに記録しています。
当然、長州人・桂小五郎がいつ来て、いつまで居たか、記録が残っているのですが、桂証言による坂本龍馬の記録はありません。幕府に来邸を知られてはならない、危険人物としては、坂本龍馬より桂小五郎だったでしょう。にも拘わらず、坂本龍馬および、坂本龍馬と思われる人物の入邸記録がないのです。
桂小五郎は、薩摩藩邸に入ってから、およそ、七日間も西郷隆盛と会見しながら、なかなか同盟を切り出しません。ところが突然、薩長同盟が締結します。何故でしょうか? 薩長同盟締結の日は幕府が、二条城の会議で長州征伐を決定した日だったからですね。二本松・薩摩藩邸と二条城は目の鼻の先で、恐らく、西郷隆盛も桂小五郎も、その知らせを待っていたと想像できます。
では、何故、勝海舟、木戸孝允、後藤象二郎らは、なんでもかんでも「坂本龍馬」としたのでしょうか?
多分ですが、薩長閥等、明治新政府の政治バランスを考えて、何でも坂本龍馬にしたのかも知れません。
【坂本龍馬と中岡慎太郎】
見ようによっては、坂本龍馬よりも中岡慎太郎の方が、薩長同盟等に活躍していた観もあります。しかし、坂本龍馬の方が有名になりました。
何故か? 板垣退助らが明治になって大きく取り上げた事や、勿論、司馬遼太郎先生が小説にしたから。が大きいのですが、薩長同盟の際、薩摩がその打診として、長州の指導者である高杉晋作のもとに中岡慎太郎を、桂小五郎のもとには坂本龍馬を遣わしています。中岡は脱藩後長州に身を寄せていて、高杉とは漢詩を通じて親友に近いほどに親しく、坂本と桂は江戸遊学中、剣術を通じて親しい間柄でした。
この頃の、薩摩は実に慎重で狡猾です。
正規の薩摩藩士を遣わせば、万一、幕府方に漏れれば、薩摩藩の画策となり、言い逃れが利きません。しかし、脱藩浪人を使えば「不逞の輩が勝手にやったこと」として尻尾切りができます。
高杉晋作は、薩摩藩の、この意図が見え、中岡慎太郎の人物を高く評価しつつも「一介の浪人者を使者に遣わすとは何事か!」と会いません。桂小五郎も薩摩藩の意図は見えたのですが、高杉に比べ多少考えが柔軟で「ま、会うだけは会ってみるか」と応接しました。ここが、大きなターニングポイントだったのではないでしょうか。
もし、逆だったら、小説も、
「慎太がゆく」
というタイトルになっていたかも知れません。
【因みに】
坂本龍馬が長崎に置いた「亀山社中」(後の海援隊→三菱)ですが、坂本が薩摩に資本を出させた、日本初の西洋式株式会社となっております。これも、見ようによっては、薩摩藩が金を出し、坂本に会社を作らせ、亀山社中をトンネルにして西洋の最新武器を手に入れていたとも見えます。海運業をやりたかった坂本龍馬にすれば、渡りに船だったのではないでしょうか?
この様な話を、たまに「坂本龍馬が好き」という人とする事がありますが、
「子育てさんは「竜馬がゆく」を読んでいない」
とキレられたりします。(^^ゞ
今回、取り上げた物が大きすぎて、書きたい事が上手く書けなかったと感じております。
捉え方は人それぞれですし「こんな見方もありますよ」という、ひとつの説として聞き流して頂ければ幸いです。
折を見て、坂本・中岡両氏が暗殺された。近江屋事件を取り上げてみたいと思います。
ふー、なんか疲れました。
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