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戦国時代の剣術流行


先日の「麒麟がくる」の中で、将軍・足利義昭が剣術に目覚めるシーンがありました。
ドラマの中でも紹介しておりましたが、前将軍、兄の義輝は剣術の達人でした。
ですから「信長の野望」なんかでも、戦闘力70台~に設定されています。義輝は剣術好きで、戦国の剣客、新陰流の祖の祖、的存在の塚原卜伝を招いて、奥伝・一之太刀を受けるなどしていました。
【戦国・第一次剣術ブーム到来】
将軍・義輝が剣術好きという事で、諸大名も剣客を指南役として抱えてくれるのではないか。という期待感から、武芸で身を立てようとする人々が現れます。宮本武蔵の父・無二斎などもその一人で「将軍様より「扶桑第一の剣士」と言われた」と自称していました。「天下に二つと無」という事で「無二斎」と名乗ったらしいです。しかし、義輝亡き後、天下は弟義昭を素通りするようにして、織田信長の元に転がり込みます。
【剣術は武士の表芸ではない】
そもそも、武士の表芸とは「弓」「槍」であって、戦場での駆け引きが出来てこその武士です。優れた武士への賞賛は「海道一の弓取」とか「蒲生家きっての槍師」と言われた様に、弓や槍こそが、武士の表芸で、集団戦を指揮できてこそ武士の誉れでした。戦場で、刀を振り回して戦っているようでは、その戦は負けでした。これは、西洋でも同じで「ランス」(槍)や「ロングボウ」(長弓)こそが、戦士の武器であり、ロングソードで戦っている様では、戦いは負けでした。
信長は、戦では役に立たない、剣術には興味がありません。代わりに美術を愛し、茶道に権威付けをします。信長配下で茶道が流行り、茶器に価値を求めるようになります。信長横死後、天下を継承した豊臣秀吉も、同じ理由から武術には関心がなく、信長同様、芸術と以来からの茶道に傾倒します。
【武士の刀にはどんな意味があったか】
それでも武士は、いつも腰に刀を手挟んでいましたが、主な役目は 相手の止めを刺したり、首を切り落とす事でした。武士にとって「刀」は、必要最小限の武器だったので、平時にこれで戦う方法を考えた人たちが現れます。これが剣術家の始まりで、当時は「芸者」と呼ばれていました。
【第二次剣術ブーム到来】
関ヶ原以後、新・天下人の徳川家康が大の剣術好きだったので、第二次剣術ブームが到来します。
徳川家が、剣術を奨励した事で、諸侯は、半ば茶道を捨て挙って剣の達人、武術の達人を求め始め、こうして剣術は武士の嗜みに成って行きます。江戸時代には様々な流派が生れ、剣術は、武士の必須科目に成って行きます。それでも、武士の表芸とは言えませんでしたが、幕末の「天誅事件」や「新選組」「見廻り組」の活躍によって、剣術は、初めて武士の表芸となったのかも知れません。
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