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ある旧友の死

もう、数年前のお話です。

その日、十何年かぶり。本当に突然、学生時代の友人から電話がありました。
―あのなぁ、「柏原」(仮名)が、亡くなったらしいねん―
「えっ? 何時?」
―いや、もう一年位前らしいねんけど…―
電話を呉れた友人は、柏原の実家に何気なく電話をして初めて知ったそうです。
「なんでうなったんや?」
―肝硬変らしいわ―

「柏原」(仮名)という友人

大学時代。あるサークルで知り合った友達で、親友のひとりでした。
奴との初対面は、なかなかインパクトがあって、パンチパーマに女物のサンダルを突っかけた。当時のヤンキーな格好をしていて、とても大学生とは思えないで立ちでした。(関西では「ヤンキー」と発音し、関東のツッパリはまだヤンキーと呼ばれていなかった頃)
サークルの顔合せ初日。ダルそうにベンチに腰掛け、一見して安物の鰐革風長財布を
「覗いてくれ」
と言わんばかりに、開いていた柏原。
ご期待に応えて覗き込むと、一個の「避妊具コンドーム」が入れてありました。
「あっ」見られた。
みたいな、白々しいパフォーマンスをした柏原は、
「お前らなあ、こう言うモン、財布に入れとくのが、礼儀ちゅうもんぞ」
と、変に嘯いていたものです。
財布にコンドームを入ておく事の、何が、礼儀なのか? 今でも理解出来ませんけど、高校時代は、反社会的広域ツーリングクラブに所属していた。と自称していましたから、「ひょっとして強姦悪い事とかしてたんかなぁ」なんて思っていました。
所が、付き合い始めてわかったのは、女の子とまともに口も利けない程「初心」な性格。
「お前、童貞やろ」
サークルの先輩に看破されて、本人も蚊の鳴くような声で、
「はい…」
と言っていましたね。
その後、安物の鰐皮財布に詰まった「礼儀」とやらは、使う機会に恵まれなかった様で、いつもお尻のポケットに挿していたものですから、1年位も経つと、擦られて丸い輪っかの形が浮き出る始末。
皆で、「柏原の下心の見える財布」なんて揶揄からかってましたね。
惚れっぽいくせに、女の子と会話が出来ない。
女の子を前にすると、いつも、ガチガチに緊張する。緊張に耐えかねて、直ぐ告白しては振られる男でした。
奴の、失恋エピソードを言い出せば、枚挙に暇の無い所ですが、一番の思い出といえば、やっぱり、夏の合コンだったでしょう。

合同コンパ(合コン)でのこと

七月の下旬。「祇園祭」が終わった頃に、私はバイト仲間で、某女子大の女の子。KKMちゃんと、五対五の合コンを計画致しました。
待ち合わせ先は、四条河原町の辻、阪急デパートの前。
女の子の前でド緊張する柏原の事は、誘おうかどうか迷いましたが、誘わなければ誘わないで、後々、たちの悪いスネ方をするものだから、
「お前も誘うけどな、女物のサンダル履いてきたり「族」みたいな恰好でなよ。ほんで、変に緊張すな。朗らかに、普段のお前でええねん。あっ、あと、鰐皮の財布は、絶対止めとけよ」
みたいに念を押してメンツに入れましたが、四条阪急前に現れた柏原は、純白のスリーピースのスーツ姿。真夏だというのに、首から白いマフラーを垂らしていました。
「…お前、何、考えてんねん」
前髪の盛り上がった、テッカテッカのリーゼント(以前はパンチパーマだった)に、グラデーションのサングラス。白のエナメルの靴を履いています。
「…確かに、女モンのサンダルは履いてへんけどもや。…お前、どっから、どー見ても、ヤ●ザの若いやど…」
まだ女の子たちとも会ってないのに、緊張しきった柏原は、左手をポケットに突っ込んで、右手の指に煙草を挟んだまま、何やら左右にゆらゆら揺れていました。
汗をだらだら掻いているので、
「…お前…暑うないんか?」
笑いながら聞くと、1オクターブ位高い声で「ふつーで」と応えました。指に挟んだ煙草は根元近くまで灰になっていて釣竿の様にお辞儀しています。
阪急の地下駅から上がってきた、KKMちゃんと四人の女の子。
KKMちゃんは私を見つけると、
「あ、子育てク…」
の辺りで、私の隣にいるヤクザ風の男を認めて、あり得ないくらいに、真ん丸い目になったのを覚えています。
私の手を引っ張るKKMちゃん。
「どしたん? 絡まれてはんの?」
「あ、ちゃうちゃう、柏原言うて、友達。…まじめな大学生やで」
KKMちゃんの後ろの四人の女の子達も、さっきまでは笑顔だったのに、
「…私ら…売り飛ばされるんとちゃうやろか?」
みたいな、不安な表情になっていました。
まあ、ヤ●ザな格好していても、面白い人ならば、そのギャップで盛り上がったかもしれませんが、柏原の場合。緊張しすぎて返ってガチに見えます。

予約しておいたお店に入ったものの、ヤ●ザ風の柏原のせいで、女の子達は水を打ったように静まり返って、誰一人として柏原と目を合わせようともしない。
傍目には、どーゆー集いに見えてるんでしょう? まあ、楽しそうな、学生コンパには見えなかったでしょうね。
素人が下手打って、玄人に追い込みかけられている図
こんな感じに、見えていたと思います。
「そや、柏原。お前、○○の物真似やってみい…女の子達みんな、こいつ、漫才師の○○の真似、めっちゃおもろいで、ホンマそっくりやから」
重たい雰囲気を打開しようと、奴の得意芸を振りましたが、柏原は、
「…いや…あれは…こういう場所で…やるもんと…ちゃう」
水割りのタンブラー片手に、重々しく言いました。
「こういう所でやるもんやろっ!」
と言うと、そこだけは、一人のしんからおののいている女の子を除いて、他、四人の女の子にはちょっとだけ受けました。
「代わりに…」
柏原はお店の人に、栓を抜かない瓶コーラを持ってこさせ。
柏原の得意技で、歯で王冠を抜こうというヤツ(王冠と言っても今の若い子は解らんかも)、これで、男らしさをアピールしようという魂胆でしたけど、
「まあ、素敵。なんて、お・と・こ らしい方なのかしら」
なんて事は、少なくとも、この日のメンツでは、成ろうはずはありませんでした。
しかも、こういう時に限って、王冠も妙に頑張る。嚙んだところがびろびろ伸びるだけ。
伸びた王冠の縁で唇が切れてきたので、
「おい、おい、柏原。やめぇ、口切れとるぞ」
「いや…大丈夫や」
「大丈夫やあらへん!」
無理やり引きちぎるようにして栓を抜くと、勢いでコーラが噴出し、真っ白なスリーピースに降りかかる。
「あーあ、一張羅が台無しや」
ここで、女の子の中で一番怯えていた、おとなしそうな子が、とうとう泣き出して、
「…子育てくん…ちょっと」
KKMちゃんに、アゴでしゃくって、呼びつけられる始末になりました。
「なんやのんあの人? みんな怖がってるやん。今日は、もう止めよ。うちら帰るから」
「スマン。あいつ、ほんまは、あんな奴やないんやけど…」
お詫びの意味もあって「ここは、俺らが払うから」と言いましたが、よっぽど借りを作りたくなかったのでしょう。
「いや、私らの分は払うから」
といって、泣いている女の子を慰めながら帰られてしまいました。

その後、男五人は、北白川まで戻って、居酒屋で反省会。
反省会と言うよりは、「柏原への糾弾会」。我々も色々言いましたけど、本人が一番、情けなかったようで、タンブラーにストレートのウイスキーを並々と注いでは、酒をあおっていました。
トイレに行ってはゲーゲー吐いて、何度目かに、
「もう、ええ加減せぇ」
というと、まるで断末魔の叫びの様に、
「こんなん呑めんで、男かぁ」
と言ったまま突っ伏して、変な痙攣を起こし出しました。
お店の人も、馬鹿な酒の飲み方をする若者に慣れていて「急性アルコール中毒とちゃいますか?」という事で救急車を呼んでくれて。
その時は、ストレッチャーじゃなくて、担架だった様な気もしますが、横たわる柏原の意識を確認する為に、救急隊員が話しかけていたのを覚えています。
で、ふっと気が付くと、いつの間にか二人のお巡りさんも立っている。
現代では、全て「白いバイク」ですが、当時は「黒バイ」で警邏していた巡査さんが、救急車の止まっているお店を観て「何事か?」と入って来たようでした。
床に横たわる、ヤクザ風の男。白いスーツには「血」を連想させる染み…まあ、コーラの染みなんですが。
呆然ぼうぜんと佇む四人の学生風の男達とを見比べて、
「…お前らがったんか?」
と聞かれました。
もう、大パニック。
「いや、こいつが、夏や言うのに、スリーピース着て来て…緊張して」
その辺から説明しようとするから、訳の分からん事になりそうでしたが、お店の人が、
「いや、皆さんお連れさんで、その人が無茶な飲み方しはって…」
と説明してくれました。
この時「付き添い」として、初めて救急車に乗りましたが、なんと、それから僅か五か月後のクリスマスの夜。街のチンピラに喧嘩を売って殴られた、別の友達の付き添いで再び救急車に乗る羽目に成ろうとは、神ならぬ身の私の知らぬ所でした。
この時、柏原は実家の住所と電話番号を打刻した、米軍風認識票タグを持っていたので、実家の家族とはスムーズに連絡が取れ居ていました。この経験から、私も直ぐに認識票タグを作り、それは今でも、何時も持っています。

就職してから

私は、東京の本社に転勤になり、柏原と何人かの友人は京都に留まりましたが、毎年、涼しくなる十月頃に、かつての仲間たちと京都に集まって、旧交を温めていました。
そして、就職から五年。二十七歳の秋の集まり。
―柏原に彼女が出来たらしい―   
上洛前に、別の友人から話を聞かされました。
なんでも、四つ年上の三十一歳の女性。(当時)
本人も、みんなに紹介すると、張り切っていましたが、集まりのお店に来た柏原は、独り。
冴えない表情で入ってきました。
「彼女はどないしてん?」
「店の前まで、タクシーで一緒に来たんやけど、学生時代の友達に会うてくれ言うたら「なんで、ウチがアンタの友達に会わなならんねん」言うて帰りよった」
「…いや、まあ、無理に会わんでもええけどな」
柏原は、ビールグラスを片手に、しみじみと
「アイツな「男」を立てて呉へんねん」
と言った後、急に下卑た表情で、みんなに向き直り、
「けど…アッチの方は立ててくれるんやで」
と笑った時は、
『わー、最低のギャグやな』
全員で突っ込み入れました。
そのあとも、柏原の彼女の悪口は止まらず、
「あいつは、俺の命を削るカンナや」
とか、ぼやき続けましたが、
「そんなに酷い女なら、別れたらええやん」
と言うと、
「ばっ…あほ言え、お前。タダできるんで」
目をむいて言ったときは、全員一拍あって爆笑してしまいました。
お前柏原、命削られても、タダでやれる方を選ぶんか?」
お店の人も、私たちのやり取りを漏れ聞いていたらしく、カウンターの中で申し訳なさそうに笑っていましたね。
学生時代には、とうとう彼女が出来なくて、琵琶湖畔の風俗街「雄琴」の常連だった柏原。
「タダで出来る」と言う言葉に「性交」=「お金を払う」という時代の長さと、その重さを、そこはかとなく感じました。
その翌年に、柏原は「タダでできる」という彼女とも別れ、実家の仕事を継ぐために、京都での仕事を辞めて故郷に帰る事になりました。
それからは、年賀状や時々の電話のやり取りになって、十年ほど前に、
「家業だけではやって行けなくて、介護の仕事をしている」
という電話を貰ったのが、柏原との最後の会話でした。
思えば、二十七歳の秋が、生きている彼の姿を見た最後だったんですね。
「また、いつか、みんなで会おう」
という約束も果たせないままだったのは、大変な心残りです。

介護を始めて、担当のお婆さんがマジマジと柏原を見るので、「気に入ってもらえたかな」と思っていたら、「あんたぁ…気持ち悪いな」と言われて、落ち込んだともいっていました。
学生時代に柏原のような友達に巡り合えたのは、本当によかったと思います。
訃報を知らせてくれた友人の電話の後に、柏原の家に電話をいれましたら、若い女性が出て、娘だと言っておられました。
故郷に帰って、地元の女性と知り合って結婚したのも、娘さんが三人生れた事も、本人から聞いて知っていましたが「時々、父の旧い友人から電話を頂いてうれしく思います」といって頂けました。
電話の向こうで泣いている娘さんに、
「…いつか、柏原君の墓前にお参りさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「勿論です」
と言って頂けましたが、それも、まだ、果たせていません。
柏原のような、なんていうか、性根が善人で、本音が駄々洩れで、なんかいつも無駄に必死。面倒くさい処もあるけど、憎めなくて、愛くるしい友達は、もう二度と現れないでしょう。

ま…という事がありました。というお話でした。

【グラデーションのサングラス】
某刑事ドラマで、故・石原裕次郎さんが掛けていて、ちょっと不良な人々は、好んで真似をしていた。
雄琴
琵琶湖畔にある、元は、普通の温泉地だった街。源泉が尽きたという話もあり、一大ソープランド街になる。京都市内が条例で風俗店が設けられなかった時代。わざわざ京都から行く人も少なくなかったらしい。現在では、条例も緩和されて、先斗町等にも風俗店があるとか。
合同コンパ
私が学生の頃は「合同コンパ」と言っていたものだが、就職して五年目、会社にアルバイトに来ていた早稲田の学生に「おお、何? 今日、合同コンパ?」と言うと「子育てさん。いまは「合コン」っていいます」と嗤われた。
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